言葉の生まれる瞬間

言葉の生まれる瞬間

昨日のエアジンLIVEは札幌から三角みづ紀さんのゲスト参加がありました。
三角みづ紀さんは5年ぶりというエアジンで、積もる話も近況情報交換も切り上げて一時間弱のリハーサル。共演は初めて。泰子さんみづ紀さんは初対面。

彼女の詩を使った2曲のレパートリー「患う」「Pilgrimage」を単なる朗読ではない方法で、そして急遽アイディアが湧いた「クセニティス(どこへ行ってもよそ者)」をやってみました。気心の知れたエアジンならでは、のおかげさまでアッと言う間にリハーサル終了。

詩集を読む側としては、詩を固定した(書かれて文字になった)ものと捉えがちですが、詩も音楽もとりあえず固定されて書籍になったり、楽譜になったり、CDになったりしているだけで、本来はその場で生まれその場で生きるもの。(ある意味でその場だけのもの)

視点を変えれば、楽譜・CDになり、詩集となったものは、「ならなかったもの」を豊かに孕んでいるものこそ人を惹きつけるのかもしれません。

逆に、書かれたものを演奏・朗読してもそれは即興であり、生まれたてなのです。

その場では「効果」は剥がされ、無惨な姿をさらすことになります。

ユン・イサンやブライアン・ファーニホーらの作曲家は、「即興に聞こえる」作曲を目指したと言います。楽譜に固定しきれないものをなんとか楽譜化するゆえに多くの音符を書き込みました。
ハイナー・ミュラーは膨大な脚本を書いた後、「大事な部分」をすべて削除しました。

楽譜にするときに漏れる音達。詩にして(印刷されるとき)に漏れる言葉達、それらの処遇をどうしようか、それこそが詩人・音楽家に課せられた仕事(人生)かもしれません。

みづ紀さんの、遠慮がちに次々に紡ぎ出される「ことば」それらは永遠に続くようでした。
これは、即興的に紡ぎ出された『音』と同じ。

音にならなかった音、言葉にならなかった言葉。生きている限り探し続ける。巡礼 Pilgrimage「ままならぬ」身体や感情を道連れに。人生。