ほそぼそと

 

「いずるば」フェスの中で、「細々と」という言葉がテーマの1つになっていました。(特にチューバの広瀬さんの出番のあった1日目)。細々と音楽を続けている、という言葉に、「いちゃもん」を付けるかたちでワンシーンを作りました。なんで自虐的にこの言葉を使うのか?私たちの持つ大きな共通の問題があるかもしれない、という提起でした。

お金を稼ぐ「シノギ」の仕事を持ちつつ、楽器を続ける。上司や同僚には「良い趣味を持っているね」「ストレス解消に良いのでしょう?」と言われても、なんとも答えようがない。自分の本当の気持ちを伝える言葉さえ持てない。一方、長年「プロ」を続け業績がある人でも「細々とつづけています」と言います。

セミプロ・アマチュアに対して、「音楽に対して本気じゃないんでしょう?中途半端なんじゃない?」「なぜ飛び込めない?」「なぜ逃げ道を用意する?」どっちつかずだからダメなんだ、だから技術も付かないんだ、いつまでもアマチュアなんだ、じゃあ、きっぱり止めてしまえばいいのに、なぜ諦めきらないの?かっこつけているの?と批難するのはやさしいし、正しいような印象さえあります。本人も強く苛まれていたりする。

プロで長年やってきても「売れていない」「有名でない」「お金が稼げない」ことで自虐的になってしまう。生活のために納得できない仕事をしたり、一旦仕事を辞めて全く関係の無い仕事をしたり。食えるからプロ、食えないからアマ?それは基準のごく一部の言い方でしょう。

1日の良い時間・長時間をシノギの仕事に取られてしまうと、練習したり、研究したり、「無駄」をしたりする時間が減ってしまうと言う事実もあります。しかしそれを言い訳にしてしまったら本当に「できない」言い訳になってしまうのです。歩いているときも、他の仕事をしているときも、自分の本来と思う身体・心でいることはできます。集中力を研ぎ澄ますことは才能に関係なくできます。

アンテルミッタンなどで保証されているヨーロッパのミュージシャンをうらやみ、日本の文化政策のダメさに憤るのはもっともです。が、それも言い訳にしてしまってはダメ。12月に共演したドイツのフロリアン・ヴァルターさんとそんな話しをしていたら、「日本のミュージシャンは本気度が高くてスゴイよ。」と言いました。ちょっと驚き、なるほど、保証されていないことは強さにもなるのだな、と発見しました。

病気になってから、天行健なりという言葉を思う日々が続いていました。
天の運行は決して間違えたりしない、地球は回り続け、朝が来て夜が来て・・・私が居ようが、居まいが関係ない。それは、自己憐憫や自虐を越えた大きな広々とした視点でした。

では、この新作は無いことと同じ?いや、いままでの作品もなかったことと同じ?

いやいや、そうではないはず。

私の作品は所有物、というよりは、私という身体と心を通ってでてきて、他人の心を揺さぶったり、感動を与えたり、自分を瑞々しい気持ちにした尊いもののはず。そこに収入や人気は関係ありません。

何億年も続いている生命史からみるとほんの最近の人類史、それから見てもほんの最近の文明史。それに照らしてみて、自分の歴史などは、微々たるもの。大きな大きな流れの中でちょっと出てきて、消えていく。そういう意味で自分などは居ても居なくても同じ、地球はずっとあり、ありつづける。

ほんのすこしだけ長いスパンで見てみましょう。どんなに「売れた」曲でも時の流れに消えてしまうものがほとんど。我が世の春を謳歌している人もたいしたことない。あの世まで財産を持って行けません。「家路:Going Home」や「蛍の光」は作れない。

だからといって、初めから諦めてなにもしない、ということはいきません。それが人の仕事、人の業、生きるということかもしれません。プロかアマかという二律背反で考えるなんて小さい言い訳にしかならない。

音楽やダンスや美術や文学などなど、自分に合うもの、好きなものを見つけたら、誰に何と言われようと、それを続けよう。人任せにしないで、自分のもの。自信を持とう。その先は音楽がダンスが美術が文学が決めてくれるのさ、音楽・ダンス・美術・文学そのものに聞いとくれ!と高をくくって良い。

まったく取るに足らない無のような自分、と意識すると共に、自分をなにより大事にする、そのために生きる=そのために死ぬ。根を持つことと羽根を持つこと。矛盾していないものなど、この世にない。矛盾こそチカラ。

堂々と「細々」とやっていきましょう。そういう「細々」があちこちに拡がっていって何かの拍子で集合し反応し、スゲーことになったりするかもしれません。

「だってしようがない」「これだけはゆずれない」というファイナルワードを使わないように!(しようがないときはしようがないし、ゆずれないときはゆずれない。)