「絵がうまい」と言われるのがとてもイヤだった、と小林裕児さんがワークショップで言われました。とても印象的でした。演奏家はうまくなるために長年日々努めています。「下手」と言われるのが最大の屈辱のように。
美術の世界では、ピカソのような絵が評価されて久しいです。ダリもピカソも素晴らしいデッサン力をもつ「うまい」絵描きですが、それを否定するような絵になっていき、その流れはポロックやウォーホールがでてレディメイド(そのまま)まで行きます。最近は「へたうま」というジャンルさえあるようです。
一方、ジャン・デュビュッフェが登場して、アール・ブリュを提唱。精神障がい者の美術に大いなる関心を示し、収集。彼自身もそれに似た絵を描いたり、即興演奏をしたり。デュビュッフェは障がい者になることはできません。アルトーを支援したり、サブカルチャーを応援してきました。
障がい者の美術とわざと「下手に」描く作品とどう違うか?
韓国には病身舞(ピョンシンチム)という伝統舞踊があり、コンオクチン孔玉振さんが有名でした。障がい者や骨格異常者、ハンセン病の人の真似をするダンスです。日本ではヘイトダンスと言われ批難されたりしました。韓国には「プンパ」という伝統芸があり、乞食の真似をします。土方巽の「疱瘡譚」を思い出すまでもなく、舞踏にはそういう要素があります。劇団「態変」も多くの支持を得ています。
竜太郎さんのダンスの魅力については私も進行形で付き合っていて、学ぶことばかり。
この前の「徹と徹の部屋vol.3」で私がふらつく足で動くことが「ダンス」なのではないか?とふと思って「踊った」のもそういうことをどこかで考えていたからでしょう。
小学生のころは「猿」や「オランウータン」の真似をして戯けて笑わすことが普通にありました。横山ノックの蛸踊りとかも。障がい者プロレスなども関係しているかもしれません。自分より下に見ることで得られる快感もあるかもしれませんが、普通でないことを神聖視する伝統もあります。精神障害の人達を神聖視する、何かが憑依したものを特別なものと見なす伝統も古今東西あるような気がします。
なんとかして「普通」を越えたいという深層心理が働いているのでしょうか?普通に生産労働をしていることに対する表だって言ってはイケナイ疑問。
長年楽器の修行をしてきた人はお分かりでしょうが、一生懸命身につけて思いの限りで演奏する音より、ふと出した音の方が「美しい」のです。私のコントラバス横置き奏法はそれを目的としていました。
フリージャズ奏者が、テクニックがないから逃げている「ちきいん」(インチキ)と言って軽蔑されたり、「あの人は『本当は』スゴイテクニックなんだよ」とか、テクニックがあれば許されるのか?
今はだいぶ薄まっていますが、モンクやアイラーにしても「ホントはスゴいテクニックなんだよ」といわれたり、かつてはそれが常識のようでした。
常識に対するオルタナティブが「即興」。欧米の音楽大学で「即興」のクラスがあるのは、大学院レベルです。私も一回講義したことのあるカリフォルニアのミルス・カレッジではフレッド・フリスが学部長。ジョエル・レアンドルも半年教えたり。たいへん優秀な学生でした。
さてこれはとても大きなトピックになりそうです。音は音が終わった時のためにあり、ノンバーバルコミュニケーションが全体の93%だということ、表したものと表さなかったもの、表せなかったものが総合して「表現」となるのではないか、という最近の個人的関心とも関係してきます。
さらなる考察が必要ですね。時間が欲しい。
写真:小原佐和子(いずるばフェスティバルより)