並木恵さん

並木恵さんのことを知らない人々も増えてきているのかもしれません。

これを機会に私の知っている恵さんの功績をお伝えします。いや、お伝えせねばなりません。

本日わたしがこうあるのも彼のおかげさまなのです。

大の音楽ファン、その範囲は幅広くクラシックから即興演奏まで差をつけずに真摯に音に立ち向かっていました。LIVE通いも尋常ではありませんでした。その中でチェロの翠川敬基さんのファンになります。翠川敬基さんは富樫雅彦さんや高柳昌行さんとレギュラーグループを続け70年80年代の日本のサブカルチャーフリージャズやフリーインプロビゼーションの中心にいました。

藤川義明さん・豊住芳三郎さんとFMTを結成していたころ、私ともDUO(低二弦)を結成。クラシックも愛し演奏しつづけてきた翠川さんとバルトークの2つのバイオリンの44のDUOなどをインプロを織り込んで演奏したりしていました。私も富樫さん高柳さんとレギュラーグループをやっていました。その縁でお目に掛かったのかと思います。

一方、横濱シエテ・デ・オロというアマチュアのタンゴ楽団がありました。(いまも?)。中学受験学習塾経営で大成功をしていた齋藤一臣さんがプグリエーセの長年の大ファンで、カサ・デル・タンゴにグランドピアノを贈呈したりして、ついにはご自分(バイオリン)も演奏したくなり楽団を組織。プグリエーセのコピーを、今はピアソラ研究の世界的権威となった齋藤充正さんに依頼、充正さんもバンドネオンを弾いていました。その楽団に神奈川県庁に勤めていた並木恵さんがバンドネオン奏者として参加しており、重厚なプグリエーセサウンドのためにチェロが必要とのことで、恵さんが翠川さんに声をかけたのでした。

コントラバホ奏者もいたそうですが、ブエノスアイレス公演が近づいて来た頃に「来なくなって」しまったとのこと。困った楽団がいろいろを探している内に翠川さん経由で私に行き着いた訳です。ともかく急誂えでしたがブエノスアイレス公演(プグリエーセオルケスタとの共演も)を敢行。同時期にあがた森魚さんも行くことになり、何曲か共演(帰国後CDにもなりました)。

いちばん熱に浮かされたのは多分この私でした。時はマルビナス(フォークランド紛争)。ブエノスの港にはソ連の船が停泊し、ゲバラ(アルゼンチン人)のポスターが街に溢れ、ちょうど「タンゴ・ガルデルの亡命」が封切られ(私も観に行きました)、到着した日にテレビでメルセデスソーサのLIVE、まだまだタンゴの巨匠たちもご存命でした。

帰国後、すぐに横濱シエテ・デ・オロと平行して自分なりのタンゴ演奏の可能性を探り始めました。当時、ご一緒していた高柳昌行さんは広く音楽を聴き続けていて、しかも長年のタンゴファンでした。ロベルト・グレーラのタンゴギターアンサンブルのカセット(当時はカセットが主流)、ピアソラの楽譜などをお土産に持っていくと本当に喜んでくださいました。ネットの無い当時は音楽情報はたいへん少なく、貴重な情報でした。

タンゴ、タンゴ、プグリエーセ、ピアソラと大騒ぎをする私。良いボールをキャッチしたら、パスを回す、を信条としていますので、どんどんとパスを回しました。なんと、そのながれのなかで、高柳さんがシエテ・デ・オロに参加するという事態になります。横濱の練習場への往復の運転手が田辺義博さんと今をときめく大友良英さんでした。田辺さんはついにはバンドネオン奏者を目指し、シエテ経由でブエノスアイレスに何回も留学、帰国後もご自身のグループ(エスタモスアキ)を作りCDも1枚(私も何曲か参加)、田辺さんのパートナーが長浜奈津子さん(女優・歌手)、私とも俳優座憲法九条の会(井上ひさしさん、加藤剛さんも参加)、ボルヘス関連LIVEなどをご一緒しました。その奈津子さんが今、喜多直毅さんとDUOをやっている!と聞いたときは驚きました。そして、翠川敬基さんと直毅さんはDUOとして長年演奏を続けています! 自然に繋がるものですね。

潤澤な資金と情熱を持つシエテはダニエル・ビネリ、オスワルド・レケーナ、アルトゥーロ・ペノン(彼はレジデンスして長期間シエテを教えるためにだけ来日)らを教師として招聘。いや~本当に有り難かったです。得がたい経験でした。

シエテの公演で高場将美さんに何回かMCをお願いしました。執筆で敬愛していた高場さんと知己を得ました。これもありがたいことでした。高場さんもギターを持って参加するようになり、広木光一さんと2ギターという場面も何回もありました。そのギターがグラシエラ・スサーナさんからもらったというギター。高柳さんも、高場さんが「中南米音楽」誌編集長時代からのファンでした。思えば良い時代です。

そしてトリオロスファンダンゴスが首都圏を席巻するLIVEツアーを始める時に私が横濱エアジンを紹介、そこに並木恵ご夫婦がいらっしゃり、ケンジ・リリアナも踊り、その時彼が録音したものがファンダンゴスのCDに使われ、恵さんはファンダンゴスの大ファンとなり、ALS発覚の後、ブエノスへ行くよりファンダンゴスを追っかけた方が良い、という結論に達し、九州で私も参加したときにも現れ、多分最後のダンスになるだろうというミロンガでも私も演奏させていただきました。ご自宅での音楽会には谷本さんと共演。

こういうことすべてが並木恵さんがきっかけなのです。日本のポピュラー音楽史に大きな影響を与えたのです。

本当に本当にありがとうございました。

(なお、恵さんはALSで本年逝去、お葬式は谷本牧師が取り仕切りました。文中の田辺義博さん・高場将美さんは昨年逝去、高柳昌行さんは1991年逝去、私はなかなか際どい状況だったりしますが、恵さんからのボール、どんどんパスを回します!)