「ぼくのからだはこういうこと」
矢萩竜太郎(ダンス)熊坂路得子(アコーディオン)私(コントラバス)
@アトリエ第Q藝術
竜太郎さんとの共演も長くなってきて、今は私が教わる、という時期になってきています。特に病気をしてから彼のことがより理解でき納得できることが多いのです。
今回は、久しぶりの本拠地「いずるば」を出ての公演。竜太郎さんのテンションはいつも以上。プラスいつもバイトをしている職場仲間が5人、初めてダンスを観に来てくれています。彼を理解するには、ダンスを観てもらうことが1番です。彼のダンスは確実に彼の人生になってきています。今後のバイト先での関係性が確実によくなるでしょう。演技後、挨拶で、竜太郎さんは何回も仲間を聴衆に自慢げに紹介していました。いいな〜。
路得子さんと竜太郎さんの演技・演奏を後ろで観ていると2人の天使が遊んでいるようです。わたし?わたしは父兄参観。この日に公にした矢萩竜太郎「ダンスとであって」DVD第2弾クラウドファウンディング告知文に言うように「弱さの力」「私たちには竜太郎が必要なんだ」、そんなに大げさに言わなくても、彼を鏡にして自分を、世の中をみるとチョット面白いんだよ、と心より思います。
路得子さん、今、乗っています。美術に進むか、音楽に進むか、今、演奏で充実。ふっきれて、やりたいことが見えて来ているようです。
強く揺さぶり、荒ぶり、クレッシェンド(だんだん大きくなり)がかかり、アッチェル(だんだん早くなる)する演奏、こんなキレイな音じゃイヤだ、とノイズをザックリと含ませ、音だけではまどろっこしくて、踊ってしまう演奏は、もっと早く、もっと確実に何かをその手に欲しい現れ。音で表すことをあらかじめ逸脱しています。
倒れている人には「大丈夫か?」と「揺さぶり」ます。音楽でも美術でも文学でも、人は「興奮」を求めます。日常から非日常への憧憬は興奮のギアを必要とします。そもそも「揺さぶる」とは、「混ぜ合わす」ことと近い。1つの純粋なものより、混ぜ合ったハイブリッドこそが「生命」にとって優性です。揺さぶりは共振を誘い、同調して、振れは増大します。
一方、静かに落ち着いて、存在すら気づかせずにも人は内部で激しく「興奮」できます。能面の下では激しく舞い・狂い・旋回し・跳躍しています。
「おざなり」で「なおざり」な「興奮」は、もう要りません。飽き飽きしています。「敵」は最先端科学情報・技術を使い、人の興奮をもてあそび「商売」をします。身体も脳も何でも知っている割には騙されやすい。
共振を突き詰めると再び「振れていない」状態になるのか?振れていないように見える糸も実は激しく振れている、ということがあるのか?そこから「もう1回」を始める。ていねいに何回も。
素晴らしく激しく美しく踊る姿を観てミラーニューロンを発火させ、参加をする。激しく動ききって興奮を誘っても限りがあります。そこが同じ身体を持つ共感であり、ダンスの魅力とも言えます。あなたの自己表現ではない。
竜太郎さんとの今の課題は「踊らない」時間をどうやって作り、その時間をどうやって充実させるかです。竜太郎さんのダンスは人の心を開きます。1人1人がダンスを取り戻すことは大変重要です。そしてそれがさらなる可能性を引き出せばさらにすばらしい。
踊りの行為は踊らない行為と合わさって力強く進んでいく。何も持っていないことが全てを持っていることと同じように。