この身体で 身体だけで

きわどい旅をして帰ってくると、単純な思考に捉えられることがよくあります。疲れで頭が回っていないこともあり循環するばかり。

今週も2つLIVEがありますが、2つともある考え方から見てしまいます。

14日エアジン 矢萩竜太郎セッションwith ゆいソレイユ、私。
「どこまででも 探しにいく この身体で 身体だけで」
という三角みづ紀さんの詩の一節(私が曲を付けて松本泰子さんの歌でエアジン初演2018年2月)
みづ紀さんのいつもドキリの言葉です。
探しにいくのは「心」でも「頭」でもなく「身体」。

感情や知識は直感を鈍らせ、判断を誤らせます。しかし身体は間違いを犯しません。
感情や知識はとかく保身に走らせ、孤独へ導きます。しかし身体は共に居たいのです。
感情や知識は所有が良いと諭します。しかし身体は共有へ向かいます。

獣の身体は、他の命を食べて(殺して)しか生きていけません。
その時が来たら殺され・食されることを誓ってはじめて、他者を殺し・食すことを許される。

人はひとりでは生きていけない。
「だってしようがない」と言ってはならない。
「これだけは譲れない」などと言い訳をしてはいけない。

みせたい、伝えたい、繋がりたい、褒められたいという承認欲求から抜ける方法・規則はそのあたりにある。

「僕の身体はこういうこと」矢萩竜太郎は言います。
私は突発性難聴になり、ガンになって彼の言葉が少しわかるようになりました。

良いところを見せたい、から離れ、人知れずやり続ける、何に向かって?自分に向かって、自分が共有する膨大な自然・記憶・歴史に向かって。それをすべて宿す私の「身体」へ向かって。

その交通をスムーズにさせたい。

他者にできうる限りの自由を・時間を与える。
自分が損をするという恐怖からの自由。
それこそが自分の自由を保障してくれる。
それこそが「即興」。