昨日、エアジン「うたまつり」ゆいSoleiyu、宝子、NORIKOに参加しました。体調の都合で、渡独が遅くなったので急遽参加出来ることになりました。不調の中ですが行って演奏させていただきありがたかったです。三人の共演者も溌剌とした、よく五感を開いて反応する、すばらしい空間でした。何が良かったとかを越えて、やってよかったな〜、という感じです。(賢治さんもよろこんでいるでしょう。アンコールが急遽「ほしめぐりのうた」でした。)
ジャズもタンゴもフォークもロックもみな、街から、ストリートから生まれ育ち愛されてきました。
現場は、響きの良いところはほとんど無く、人の車の電車の諍いの雑音や喧噪に溢れていたでしょう。飲む打つ買うの現場で、毎晩毎晩場所を変えその場で即やらねばならない。強い音・大きな音に従うしかなく、それが活きるような音楽になっていく。ドラムスの乱打やサックスの咆哮がストレスフルな心にカタルシスをあたえ、激しいダンスで身体を癒す。
ミントンハウスでチャーリー・クリスチャンがギターを電化し、PAをつかい、アンプをつかい、昨今は映像をつかい、ドラムが1番小さな音になり一つ一つの太鼓・シンバルにマイクを立て、これでもか、これでもか、これで満足?という効果の右肩上がり。みんなに満足を与えるエンターテイメントを目指す?
夜の歓楽街には沈黙は似合わない。ビリーホリデイのビブラートが全員を沈黙させ、ということはあったにせよ。ともかく大っきな音を、酔える酒を、目を眩ます照明を。
クラシック音楽ははじめからこの現実との闘いには参加せず、響きの良いホール・スペースを牙城として、経済の優位・優遇を楯に、既得権益を守る。(クラシック音楽だって、大元は人から・街から・自然からだったはず)
エアジンの梅本さんは、40年近く前、順風満帆のクラシック演奏家として生涯安泰だったところ、事情によりケルンから帰国。このライブハウスを受け継ぐ。それがどれだけの文化ギャップだったことか。
「ジャズ」が大学で教える「クラシック」となっていったのと平行して、ジャズの現場で「音楽」そのものが求められるようになったと言えます。それを具現化しているのが今のエアジンでしょう。
アメリカ合州国の力が第二次大戦以降徐々に衰退して行っていることとも無縁ではない。音は、音楽は、政治を社会を先取りしていて、ブラジル・アフリカ・アジア音楽、ピアソラ、パコ、ワールドミュージック無しには今の音楽は成り立たなくなり、ハリウッドだけでは今の映画は語れなくなっています。
その梅本さんが最近熱心に取り上げるのが「うた」そして女性ミュージシャン・ダンサー。そのひとつの結晶が「うたまつり」。昨年は、「うたとベース」の特集シリーズなんてやっていました。
現状では、著名音大を卒業してもなかなか満足する職には就けず、仕事も少ない。ポピュラーやスタジオ、ジャズ、に流れていく傾向もあります。(日本にようやく「サードストリーム」が訪れている?)
日本のジャズ界は保守的でマッチョで体育界乗り傾向があるので、やんちゃな男子が天才を披瀝するにはまだまだ土壌があります。そんななか、今の梅本プロデュースは将来に大きくつながり、埋もれがちな才能を開花させる大いなる手助けをしているのではないでしょうか?どこかでMeTooと繋がっていたりして。
次回エアジンは6月14日、矢萩竜太郎(ダウン症のダンサー)セッション。徹・ゆいSoleiyu。「ぼくはこんなからだです。おどります。」(仮称)これも現在における「弱さ」の重要性、必要性に関係しています。あっ、私自身も現在「弱者」でした。どうぞよろしく。