現状のように私が「弱って」いると、共演者が本当にすばらしい演奏・ダンス・演技をしてくれます。これは得がたいなんともすばらしい体験です。弱った部分に注がれたそれぞれの「ほんたうの」あたたかなこころが華開くかのようです。
竜太郎さんとの共演によってもたらされるさまざまな発見・奇跡と似ている、と思うところもあり「いずるばオープンリハーサル」を始動しています。第2回が3/31に行われました。
彼のダンスを「エネルギーが満ちた」とか「気が充実した」と言うことは多くあります。あまり考えずに、無意識にそれを使い続けてしまうと、実情から離れてしまいます。
あの「元気いっぱい」を支えているもの、可能にしているもの、そうせざるをえないもの、そこへのまなざしを忘れてはいけない。実際に、あの笑顔に救われることも多いし、あの溌剌さに鼓舞されることも多くありますが、そこだけではだめじゃないか、と私自身の病後、思うようになり、我がこと、世のことに拡げなければ、ということを共有したいと思うようになりました。
彼の身体(自然)も私の身体(自然)はすべてを知っているのだと思います。
人と楽しく過ごすことの嬉しさを爆発させ、時として彼自身がそれを無視することもあり、私たちもその喜びや嬉しさをとりあえず共有したい。ハレの場を共有したい。しかし、ケがハレを支えていることは皆知っています。
このオープンリハーサルでも高まり過ぎてしまった気持ちを深呼吸で「息=自らの心」を整えてから始めました。
バイト先や集団学習で言われた一言に深く傷つき、言うことを聞かない身体にがっかりし、グループホームのこと、将来のことに強い不安を覚えることが彼の日常です。とかく、弱い方向にいろいろな社会の矛盾が集約されます。そこを源として彼のダンスがあると考えて見る。
根を持つことと羽根を持つことを同時に得たい、ということにも共通します。どちらかではないのです。羽根が根を導き、根は羽根を支えている。
私たちの「身体」は、その危うさも可能性も知っています。彼の身体(自然)と私の身体(自然)はその危うさも可能性も共有しています。そこを忘れて、その場の楽しさに耽溺しないように。
「生」が「死」をささえ、「死」が「生」をささえることが唯一の真実。すべてはその鏡。ノイズが激しいほど沈黙は深さを増し、哀しみ(トリステ)は絶えないけれど幸せ(フェリシダージ)は終わる。人の哀しみをうたい・おどる。
今回も多くの人が参加してくださり、「いずるば」を作ってくださいました。
ゲストの熊坂路得子さん・木村由さん・荒井皆子さん、WSから引き続きの、かみむら泰一さん、鈴木ちほさん、大塚惇平さん、前日からひきつづきのゆいさん、パリから、佐賀から、そして最後には聴衆全員がステージにでてくださいました。
ありがとうございました!次回4/22は 國本文平さん・フィリップシェールさん他がゲスト、ハンチンソン病(舞踏病)のことのお話も聞く予定です。
明後日は、岩下徹さんのダンスとの共演@ポレポレ坐「徹と徹の部屋」シリーズが始まります。
長生きしなくっちゃ。