広島

広島行き

楽器も荷物もすでに運送会社に預け、この時間はいつものようにボーッと気だるい状態ですが、つらつらと明日からのこと・広島のことを思っています。

黒田さんとのきっかけとなったアスベスト館公演(@広島現代美術館)は、野外にアバカノヴィッチの背中の彫刻のお披露目でした。屋内ではアンゼルム・キーファーの大きな展覧会という異常な空間。

アバカノヴィッチの代表作である多数の背中の彫刻が動き出す、というパフォーマンスの音楽を担当し沢井一恵さん・伊藤啓太さんに来てもらいました。

アスベスト館とは、劇団「太虛TAO」の東向島住友ベークライト工場跡での「ハムレットマシーン」(ハイナーミュラー作)で初共演、その縁で、大野一雄校長「アイコンとしての身体」というワークショップの音楽部門を担当。まだ、目黒にアスベスト館があり、土方巽さんに世話になったり、思い入れのある人達が協力しながら元藤燁子さんベラさんガラさんを助けていたころです。

この公演の映像をアバカノヴィッチさんが大変興味を持ち、ワルシャワで大回顧展があるので、一緒にやろうということになりました。アバカノヴィッチさん自身が振付を書いてきて「この振付は変えてはなりません。それはショパンの音符を替えることと等しい。」と言ってきました。すげーな、と思ったのが最初です。

ワルシャワで実際にお目に掛かり、自宅アトリエに招待され、肉ピーマン・ワインなどご馳走になりました。ポーランドの若者もワークショップをやって参加してもらいました。アバカノヴィッチさんはたいへん「ワガママ」でした。しかし、そのワガママはすべて「作品のため」であり「表現のため」であり、自分のためではないことはすぐ分かりました。そういうワガママな大物表現者を最近は見なくなりましたね。

音楽は、沢井一恵さんの門下から、水谷隆子・菊池奈緒子さん(箏・17絃)に来てもらいトリオで生演奏。水谷さんは私と同病で亡くなってしまいました。病気が分かってからの活躍を思うと他人事とは思えません。また、彼女が治療のためにアメリカに住んでいたのがニューヨーク州の小さな街ロチェスター。

数年前に国際コントラバス協会がコンベンションがあり、ベースアンサンブル弦311と共に訪れました。感慨ひとしおでした。このころはまだお元気。菊池さんで思い出すのは、成田空港で出国手続き寸前に警察が取り巻いてきたことです。そう、オウム真理教の逃亡犯と同姓同名だった、というだけの理由でしたが。彼女は現在フランクフルト在住。ブッパタールで会いました。

アバカノヴィッチさんはポーランドでは非常に大きな尊敬を集めていて、このパフォーマンスもマスコミにも大きく取り上げられていました。演奏も評判が良く、アバカノヴィッチさんもたいへん気に入ってくれ、めったに撮らせないというスナップ写真も青春の思い出です。

私もラジオのインタビューを受け、今でも記憶に残っていることがあります。「なぜ、日本人はアバカノヴィッチさんの芸術が好きなのか?」という質問に「日本人は戦争体験を忘れてしまう、アバカノヴィッチさんはそれに気づかせてくれることがあるかもしれません。」と答えると、若いインタビュアーが「取り乱し」て「すみません・・・私たちは戦争のことを忘れよう忘れようとしているのに、あなたが思い出さねば、というので・・・」。

ワルシャワでは、偶然にエリザベート・ホイナッカ(チェンバロ、クセナキスやピアソラの奏者)の公演を観たり、パフォーマンスの後はクラカウへ行き、演劇での最大の憧れだったタデウシュ・カントールのクリコット2スタジオを訪ねたり、アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容所を訪問したり、私の人生の中でたいへん濃いツアーでした。(帰国直後に沖縄に演劇公演で行き、チビチリガマに行ったのもすべてリンクして記憶に深く刻まれています。)

帰国後も元藤燁子さんは、このポーランド経験を繋げた活動を続け、大阪では劇団「態変」とのコラボレーションでも、死去の3日前までご一緒していた銀座資生堂パフォーマンスでも、多くの靴の紐でしばりそれを引っ張るパフォーマンスを続けました。大阪の時、元藤さんは膵臓手術直後でしたが、渾身の演技でした。今思うと、さぞかし痛かったろうな、辛かったろうなと・・・・。

一昨年ブッパタールで観た映画が「フクシマ・モナムール」。「ヒロシマ・モナムール」とリンクしているのでしょう。今回主催してくださる黒田さんのご両親は被爆者。アビエルトの大槻さんが提案してくださった「花びら供養」=花、開くよう、石牟礼道子さんが亡くなりました。学生の頃世話になった鶴見和子さんや沢井一恵さんと仲良しでした。

広島から繋がるものには共通する色がじわりとにじんでいます。

さあ、がんばりすぎないようにガンバリマス。