この2月さまざまな言葉を使って話し、書き、考えて来たので、一旦終わってホッとしています。もともと言語的人間ではないので、左脳ばかり使うと、言い足りない感・言い過ぎた感・うまく言えなかった感・こう言えば良かった感・見栄、受け売り、嘘だったのではないか感・正し過ぎ感に囚われてしまうのです。
音だけで生きて行ければ楽でしょうが、このWSにせよ、オープンリハーサルにせよ、書籍化・DVD化企画にせよ、詩人と歌を作る企画にせよ、ポレポレ坐「徹と徹の部屋」企画にせよ、ドイツでの「私の城」再再演にまつわる事務にせよ、自分でエンジンを回したものです。また、言葉でやりとりをしないと進まない部分がたいへん多くあります。そして、自分が止まればほとんど全て止まってしまいます。かたや体調により日により、時間帯により、進んだり、止まったりすることが常態で全体のスピードは明らかに遅くなっていますが、粛粛とやり続けるしかありません。ラッキー!と思って進めます。
昨日、オープンリハーサルでの参加者とのやりとりの中で印象的だったのが「自分が参入して良いものか、迷った、入る勇気がもてなかった」「自分が入ると全体を壊すのではないか?」「聴いているだけで満足してしまった」という側面でした。このあたりに、若いミュージシャン・ダンサー・表現者が悩んでいる・苦しんでいることがありそうに見えました。
確かに、音楽やダンスが良い感じで進行している時に入って良いものか悩むのも分かります。一歩踏みだしてみることを薦めます。良い感じで進んでいるときは、無数の情報のやりとりが上手く機能して進んでいると言えるでしょう。そこに入ることが必要か?という問いも理解出来ます。
しかし、やっている当人達にとっても、一寸先のことさえ分からず、自分を賭けて、投げ出しています。そういう状態であることに理解があれば、入ることが可能です。一緒に一寸先へむかって動き始めれば良いのです。ダメだったら抜ければ良い。
あらゆる状態(良い時も悪いときも)をうまく生き抜く、より良い状態へ導くことこそが「即興」なのだと、このWSゲスト回でミッシェル・ドネダが言っています。
「即興」の対義語が「常識」・「自分自身」であるとすると「良い即興」「悪い即興」」はあります。自分の技術や奏法、評価にこだわったり、さらに即興の常識にこだわったりすることは「悪い即興」なのです。自分の得意技をやりたがったり、こうすれば「受ける」ということは他のジャンルの話です。
すばやいことをベターとする現在、待つ事は、たいへん大事なことです。待つ事は聴くことと同意だと考えます。即興において待つ事は多くの良い結果をもたらします。ギリギリまで待つ勇気の蓄積は、やっちまえ、よりよっぽど豊饒です。
一方、止むに止まれずやってしまった、という衝動も大切にしなければなりません。そこにチャンスは潜んでいます。止むに止まれず、と言ってもそれは個人の瞬間瞬間に積み立てられる膨大な情報に基づき、日頃、願っていること、志していること、そしてそのために努力していること(努力しているという意識なく努力すること)が発火した結果なのです。その「人」が問われるのは当然。
一方、待ちすぎると、腐ってしまいます。「わたしなんか・・・」という遠慮は、自分に対する最大の「不遜」です。そんな微妙な綾の中に即興の現場はあります。それは社会そのもの。自分を大事にし、他人を大事にし、自然を大事にし、場を大事にし、時を大事にする。そんな気持ちで身を投げ出せば、周りがなんとかしてくれます、周りと共になんとかしましょう。なんとかする=即興。
人生での失敗は取り返しのつかないこともありますが、しかし、表現では(特にオープンリハーサルでは)失敗できます。逆に、遠慮することは失敗ですし、自分に囚われすぎることも失敗でしょうが、それを体験し、次に繋げることができれば失敗ではなくなります。そして、そういう知恵が人生にもフィードバックされます。
目先の「損得」から逃れる理由がやっぱり「損得」である限り(得をしたつもりでも結局損なのだ、というスパイラル)その連鎖から逃れることはできません。違う次元で捉える。損の反対は得(だけ)ではない。得の反対は損(だけ)ではない。
矛盾してないものなどありません。重力と引力で存在し、生物は利己的遺伝子による生存競争を繰り返します。大きな宇宙的な視座を持てば、目先の矛盾も損得も何でもなくなり、すでに根と羽根を同時に手にしていることに気づきます。
自分自身をふり返ると、「命が繋がったから、今日のような演奏ができた、WSができた、歌が生まれた、出会えた、分かち合えた」ことを貴重に、そして喜びに思うとまったく同時に「それらがなくても、わたしがいなくても、天行は泰然として動き続け、なんの過不足もない」と思うのです。
すべてを粛粛と即興的に処理していくのが生命・万物の歴史。
こんな大げさなことを真顔で言える自分にビックリ。