エキストラはエキストラにあらず

エキストラはエキストラではなく
 
 
庄﨑隆志さんとの出会いは偶然なエキストラ依頼でした。
詩人の野村喜和夫さんに招かれてメキシコシティでの現代詩祭に参加。それはそれは詩心溢れるメキシコの豊かさを、そしてちょっと情けなく貧しい日本を思わせる体験でした。メキシコシティで私たちを世話するべく待っていてくれたスタッフの一人が高際裕哉(Yuya Takagiwa)さんでした。お陰さまでフリーダの家、ディエゴとフリーダの披露宴レストラン、ディエゴ・リベラたちの絵画、書店、デモなどを体験することができました。
 
裕哉さんの友人の山下さんがフィリッピン手話を勉強していて庄﨑さんと知人だったのです。庄﨑さんが「牡丹と馬 おしらさま 遠野物語」を上演するときで、やはりコントラバス奏者と共演するはずだったのですが、急遽出演不可能となり、山下さんから高際さんにそして私に辿りついたのです。笹塚の喫茶店でお目に掛かったときは「えっ、聞こえない人と共演?」とビックリしましたが、巡り合わせを喜ぶようにしていましたので、引き受けましたが、実際不安でした。そんなことができるのか!?ところが、明日のような事が実現するまでになっています。
 
 
タンゴもそうでした。横濱シエテ・デ・オロというアマチュアのタンゴオルケスタが、巨匠オスワルド・プグリエーセと関係を持ち、カサ・デル・タンゴ(タンゴの家)にピアノを寄贈したりしていて、ブエノス・アイレスで共演するという時期でした。やはりコントラバス奏者が急遽出演不可能!となり、当楽団でチェロを弾いていた翠川敬基さんからお声が掛かりエキストラで参加。えっ、タンゴオルケスタ?そんなことできるのか、と思いましたが、リハーサルに参加、ブエノス・アイレスへ行きプグリエーセさんと共演までさせていただき、ミイラ取りがミイラになるようにタンゴにドップリはまりました。
 
 
箏との出会いも偶発的でした。尊敬する画家・大成瓢吉さん(湯河原・空中散歩館)のデッサン教室でのイメージデッサンのために朝日カルチャーセンターに何回か行きました。本来は尺八の方(今や巨匠)とデュオのはずでしたが、急遽出演不可能となり、十七絃の栗林秀明さんがエキストラで来たのです。それが、その後の何十年にも及ぶ豊潤で冒険な旅の始まりだったのです。ちなみに彼の娘さんが今、ジャズピアノで人気の栗林すみれさんです。(ビックリした〜も〜)
 
 
福岡アジア美術館オープニングの時は、著名な俳優さんが出演予定でしたが、急遽出演不可能となり、私にお呼びが掛かりました。上記の栗林秀明さんの箏アンサンブルに、韓国シャーマン音楽に精通した鄭喆祺(チョンチュルギ)さん、舞踏の工藤丈輝さん、そして昨年ベネチアビエンナーレに招待されたマレーシャーマンのザイ・クーニンと彼の劇団(メタボリックシアター)をお呼びしてオープニングイヴェントを行いました。
 
 
カナダ、ビクトリアビルのインプロフェスティバルで影の時(ミッシェル・ドネダ、レ・クアン・ニン、沢井一恵、今井和雄、私)の初演をしました。その直前に、ペーター・コヴァルト(ドイツ・ブッパタールのベーシスト)が急逝し、彼を偲ぶベースカルテットが企画されていてバール・フィリップス、ジョエル・レアンドル、ウィリアム・パーカー、バリー・ガイがオリジナルアイディアでした。バリーさんが急遽出演不可能となり、バール、ジョエル、バリーさんの推薦で私が参加しCDにもなりました。そしてペーター・コヴァルトさんと長年デュオをやっていたジャン・サスポータスの耳にもはいり、セッションハウスとの共通関連もあったので、ジャンさんとの関係も始まったのです。
 
あれあれあれあれ・・・
「急遽出演不可能となり、」ということで私の人生が大きく決まってきていますね。
 
そうです。エキストラはエキストラにあらず。
あるいは、
エキストラを、必要最低限の「助っ人仕事」とせず、120%自分の仕事にする
あるいは、
エキストラを、偶然にせず、必然に「勝手に」変更する
あるいは、
これこそ、あるべき道、必然だったのだ、と納得する
 
そう、この病気だって、そして手術成功だって、副作用だって、今日だって、明日だって、そうなのだと思いいたす。
 
それこそ人生。それこそ即興。
それでいいのだ。