コトバの両極端の一週間

 

コントラバスとコ○ト○バ○

昔から気に入っている駄洒落の1つです。「コントラバス」という音を一つおきに発音するとコトバになります。

週末・来週と、コトバの両極端を体験することになります。

週末の「いずるば」ワークショップ・ゲスト庄﨑隆志さんでは、音声としてのコトバは無し。豊潤な聾の文化を垣間見ることができます。

そして、2月1日のエアジンでの松本泰子さんとのデュオでは、同時代の詩人のコトバを使った曲を作っています。

私の場合、自分で作曲家ではないと思っていることもあり、ねばってねばって納得のいく音を紡いでいくというタイプではなく、早書きです。それでも、メロディを作る時、1音の選択にあーでもない、こーでもない、と詰まってしまったり、ボツ曲がゴミ箱に山となったりします。

詩人のコトバをつらつらと眺めながら、つくづく思うのは、詩人(に限らず、コトバで生きている人)は、本当に見事にコトバを紡いでいますね。やっぱり餅屋は餅屋(なんて、古典的な)。

前投稿で書いたように、一つのコトバが詩になってこの世にでてくるのには、数多の使われなかったコトバに支えられて、純度を磨き上げたコトバがそこにある、のでしょう。それは私たちが1音の選択に悩むのと同質なのかもしれません。

三角みづ紀さんのコトバは「痛く」薦田愛さんのコトバは「湿る」。

やっぱり、自分でコトバを作らなくてよかった〜、と思います。(と、言いつつ、遠いいつの日か、一つか二つ作ってみたいとも。)

今年当分の間、何人かのコトバで生きている人のコトバをお借りして曲を作ってみたいと思いました。なにかゆるいテーマを提示しようかとも思いましたが、止めます。ともかくやってみれば2018年の日本が立ち現れ、その先、どこか普遍へ辿るのではないかと期待します。楽しみだな〜。そのためにも3ヶ月点検を次々とパスしないとイケマセン。

詩人がコトバで「呼びかけ」る方向と、聾の俳優・ダンサーが探し求める身体は、かならずどこかで交錯する、その媒介として音楽・私。それを体験できる貴重な一週間になるのかもしれません。ゾクゾクしてきた。風邪じゃないはず。