違い

あっ、またあの感じだ、何が違うのだろう?

アレッサンドロさんと直毅さんとのトリオでのこと

アレッサンドロさんは若きイタリアの才人らしく、豊富なボキャブラリーを駆使して「ヴィオラの演奏」で、「自己表現」をしています。それに対して、もしかしたら、私と直毅さんは楽器の演奏が目的ではなく、演奏の終わりが目的かもしれません。ちょっと説明しにくいことですが、演奏自体が目的ではないのかもしれないという仮説です。

アジアに伝わる無絃琴の伝統とも関係することかもしれませんが、演奏自体が問題ではないような気がします。大事なのは、演奏が終わってからの感覚。音のなくなった瞬間からの音の記憶あるいは音が呼び起こした感慨の反芻、ノイズがもたらした沈黙の深さが大事なのかもしれないと言うことです。極論すれば音楽が問題ではないのかもしれません。

音は沈黙と拮抗して初めて存在し、沈黙は音によって深まり、美音はノイズによって表され、沈黙はノイズによって美音となる。

もっと掘り下げてワークショップで考えてみたいトピックですね〜。