毎日が誰かの誕生日、毎日が誰かの命日

 

毎日が誰かの誕生日、毎日が誰かの命日です。誕生日でない日おめでとう(不思議の国のアリス)

昨年は何人かの親しい人が逝き、私は残されました。
本日はその中の一人高場将美さんの誕生日です。

私は、抗がん剤治療中、ふらふらの足取りで飯田橋の病院へお見舞いに行ったのが最後になりました。復帰を目指して足の屈伸運動を繰り返していらっしゃいました。桜の開花が話題になるころで、「僕は桜が嫌いだから、桜の中を退院したくないんだよね」とおっしゃっていて、安吾を思い起こしましたよ。美しく伸びた白髪が天使のようでした。「天使のリン」死んだら魂はどこへ行くの?を教えてくださったのも高場さんがずっと牽引してくれた日本のラテン音楽情報からでした。

高田馬場の小さなスペインパブ「オレ」でよく誕生日LIVEを峰万里恵さんとご一緒しましたね。毎回丁寧に自筆で書き込まれた曲目解説は宝物でした。MCも楽しく、ご自身も楽しんでいらっしゃいました。そして何とも言えない味があるギターでした。

そうそう、オペリータ「うたをさがして」ツアーを終えて岩国から車で高田馬場まで駆けつけて誕生日ライブを聴いたこともありました。

最初にあなたがギターを見たのはタンゴオルケスタ(シエテ・デ・オロ)の時でした。「これは、グラシエラ・スサーナさんにいただいたものなんだ」と言って楽器をケースから出したときは弦が1本足りませんでした。グラシエラさんは日本にひっそりと滞在し、八戸にも住んでいたそうです。(先日亡くなったコントラバス・ピアノ奏者のオルカル・アレムさんと一緒にCDを録音したときは「八戸小唄」と「カンシオン・パラ・八戸」を日本語でも歌っていました。なんとも切ない歌になっています。)

毎週、幡ヶ谷駅で待ち合わせをして横濱の練習場まで通いましたね。帰りはパセオ編集室などにお送りしました。あなたは広木光一さんの隣で、誇らしくギターを弾いていました。広木さんの前任者は高柳昌行さんだったのですから大変名誉ある席です。

お目に掛かったのはその随分前になります。ミュージシャンより何倍も音楽を愛している、というのが最初の印象でした。実際、気持ちよく酔った彼を介護したこともありました。ピアソラの初来日前の「中南米音楽」(彼が編集長でした。)の記事は素晴らしく私を鼓舞してくれました。私が、無謀にも音楽で生きていこうと、周囲全員の反対の中で逡巡していたころです。

知己を得てからよく呑んだり、しゃべったり、聴きに来てくれたり、いつもいつも私は多くを学んでいました。アルコールを、女性を、そしてなにより音楽をこころから愛していらっしゃいました。その人間と知識と詩情の大きさはヴィニシウス・ジ・モラエスを彷彿とさせました。

彼を探すときは新宿ゴールデン街「ナナ」に行けば見つかることが多かった。店内では、椅子に座ろうとせず、立ったままでゴロワースと赤ワインをとびきりの笑顔を絶やさずに楽しんでいらっしゃいました。ある時、ナナで、「今日は臨時収入があったからご馳走します。いくらでも呑んでよ」と言って杯を重ねる内に、ペルー日本大使館を「ゲリラ」が占拠した時のテレビの同時通訳をしたと言ってなんとも言えない表情をなさいました。一方的に「ゲリラ」=極悪とする常識の中で、彼らがどういう生活をして(せざるを得ず)どういう気持ちでいるのか、そこを高場さんは知っていました。

ピアソラに関しては文章や、解説でたくさんたくさん教わりました。ピアソラを観るために買ったビデオで、ピアソラと友達のように話す高場さんを何回繰り返し観たことか。私はブエノスアイレスへエキストラで行って以来、タンゴ(プグリエーセとピアソラ)にドップリはまり、ピアソラ曲集CD「Tetsu Palys Piazzolla」を録音、ジェラルド・ガンディーニ(ピアノ)を擁するピアソラ最後のセステートに憧れていて、「ピアソラのグループに入る!」と決め、CDをピアソラに聴いてもらいたく高場さんに託しました。(もちろんライナーを書いて頂きました。)

その時ピアソラはもはやヨーロッパで最後の入院中。病室には届けられたということ。ほどなく亡くなり、大統領が差し向けた飛行機で帰国。亡くなった時は、高場さんの元に連絡があり、すぐさま私に電話をくださいました。「テツさん、アストルが・・・・」といったまま5分くらい沈黙でした。

高場さん自身も一度病院から見放されましたが、見事に復活。峰万里恵さんの歌の伴奏者として生きることと決め季節を重ねました。途中で私が何回も伴奏に加わってアップリンク、オレ、ポレポレ坐などなど楽しい時間を過ごしました。ポレポレ坐ワールドミュージックの館シリーズでのロルカ特集では、俵英三さんが「高場さんの頼みなら」とゲスト出演。俵さんにも多く学びました。

とびきりの笑顔は私の心にはいつも焼き付いています。今、拙宅には、高場さんの記事の載っている「中南米音楽」「Latina」プログラムなどが高柳昌行さん宅から移送されてきています。こういう人達と同じ時間を生きたことを私は終生の誇りとします。少しでも伝えられたらな〜。