2週つづけて成城学園へ、先週はアトリエ第Q藝術での喜多直毅・皆藤千香子さんとのセッション、今週は庄﨑隆志さん(聾の役者・ダンサー)にお誘い頂き、成城学園初等部での2日間で全学年6回パフォーマンスでした。アトリエから徒歩3分。(表敬訪問しましたが、定休日でした。庄﨑さんもキッドアイラックホールで共演したことがあります。)
「庄﨑隆志」という存在を生徒に体験させたいというH先生の強い意志で10年掛かって実現したそうです。観劇会という行事が毎年有りその中に組み込んだのです。さらに素晴らしいのは事前に庄﨑さんが聾であることを生徒に伝えていません。
この頃の小学生がどうなのか、ほとんど知りません。庄﨑さんと金沢映子さん(文学座の女優さん・手話ができる)と三人が出演、平山由香利さん(サバイバー!)が字幕や制作もろもろ。まるで旅芸人一座のようでした。私は、小林裕児さん作の猫の仮面をまた使わせていただきました。
朝8時に現場に到着というのが私にとっては一大課題。都心を抜けるのですが、早朝通院の経験で、早い方が車の量が多く!渋滞もありというメガロポリス、事故が起こると高速は完全にストップ。この話が来た時からどうしようか、考えていました。2日連続なのでホテルを取るか?さえ考慮。結局、運を信じて朝5:45に出発することで、2日間とも無事到着しました。善行には神様が味方してくれます。
小学生は日々成長するので各学年の差はスゴイです。さらに、クラスによる差、担任教師による差、そしてなんとなく作られていく集団の個性、まさに社会。まざまざ見せていただきました。一学年100名以上。
主題は宮沢賢治。「注文の多い料理店」は全学年。「雨にも負けず」は3~6年。(雨にも負けずの素晴らしい英訳/Rain Won’t by アーサー・ビナード、絵 by 山村浩二を読んだばかりでした。)Eテレ「手話の時間」で一緒にやったコント、指芝居、カメラマンおじさん、エアーボール、動作・拍手での遊び、などなど盛りだくさん。
生徒との関係は即興的に進めていきます。それしかありません。最初の紹介が済むと衣装準備のため私が場を繋ぐことになり、楽器の説明(ヒツジの腸、馬の尻尾、松の脂、象牙、160年歳のフランス人おばあさん、音域)をしたりタンゴ、ジャズ、ワルツ、韓国伝統、アフリカ音楽を聴かせたり。インプロというのがあって、こういう風にメチャクチャ弾きます、なんてもやりました。
子供なのだから適当にやった方が良い、とは全く思いません。精一杯やります。あっ、大丈夫です。ミラーニューロンを考えて顔は優しく朗らかにやりましたよ。毎回、浮腫んだ足でもスキップしてにこやかに登場しました。ベトナムのハックメオ(指鈴)をみんなにくばって一緒に演奏したり、擬音をだしたり、横置き弾きしたり、変則チューニングしたり、雨にも負けず、ではバッハプレリュード、アルマンド(1番、2番)も。
即興的な掛け合いでの演奏中、庄﨑さんとのシンクロが随所に出現。本当に聞こえているとしか思えません。いや、そうなのです、「聞こえている!」のです。今回の大きな気づきでした。
「身体を所有しないこと・心を所有しないこと」を「いずるば」ワークショップのテーマの柱の1つにしています。私たち演奏家が、自分の心と体を所有しないで、自らを「通り道」として演奏するのと同じように、庄﨑さんも子供達も、その「所有から離れた」身体は、38億年の生命の歴史とともに全てを聞いて、全てを見、全てを感じているのです。
以前は、蝸牛菅のリンパ液は振動していてその先が伝わっていないという局所的な考え方でしたが、そうではなく、38億年の雄大な身体・宇宙が聴いているということが感じられました。
世のあまねくすべてのパフォーマー達よ!(そして全ての人々よ!)
「受ける・受けない」、ということに一喜一憂、思い煩うことなかれ!「受ける・受けない」は所有されたちっぽけな個人が感じるだけのこと。心の奥底からのあなたを通って流れていく「願い」は、「受けない」人達の身体(自然)にもキッチリと伝わっています。そう信じましょう。いや、それこそが「信じる」ということなのです。自分も主体ではないのです。それだけに、いま・ここ・わたしで心から信じていることをやる!ということを糸口にするしかありません。日常がすべてさらけでます。怖れるなかれ。
たとえ、人気が出て盛り上がるライブだとしても、あなたの身体はどう聴いているか、観ているか、あなたには関係ないところで反応は起こっています。逆に「受けない」ステージ、絵、ダンス、文章であっても身体がしっかりと反応していることはあるはずなのです。
自分の考える範囲に狭めてはイケマセン。そんなものツマラナイに決まってます。自分を超えるものだけが伝わり・繋がっていきます。自分を規定するあらゆるものを疑いましょう。必要最低限では縮まっていくだけです。思いつく全てをやり尽くして倒れた後、過剰な部分のみが経験値となり、芽を出し、先に繋がっていく。
ハンディキャップの施設に行くと、スタッフから「分かりやすいものをやってください」と言われることがあります。そしてそれは「スタッフに」「分かりやすい」ものに他ならず、入所者や、通いの人達には私たちの全人生を賭けて演奏しなければ伝わりません。かつて網走の施設で14年全く動かなかった人が私と井野さんの音に反応して動き出し、先生方が大騒ぎをしたことがありました。
子供だからといって甘く見ては自分にしっぺ返しがきます。ブス~っとして、反抗的な子供だって、身体は聞いています、そして、理解するどころか、上回ってさえいるのです。「分かりやすい音楽」をやろうとした瞬間にその音楽は「分かりやすい音楽」以下になってしまいます。
庄﨑さんの才能と経験が華開いている上に、そのカリスマ、舞台に賭ける情熱、人々に対する愛、特に弱いものに対する愛、伝えたい想い。そして自分では制御できない大きな大きなものに突き動かされている大事な人間です。子供達を完全に引き込んでしまいます。子供達も瞬時に彼が普通のコトバのコミュニケーションをしないことを察知、子供サイドからのコトバの突っ込みに反応しないのも、何か違うと思いながらも、「注文の多い料理店」の猟師の猟犬が亡くなったシーンで、手を合わせる子供が複数いました。
庄﨑さんは、最後の挨拶でみんなに手話で「I love you」とか「ありがとう」を教えてくれました。何人もの生徒さんがいつかきっとこの時間を思い出してくれることでしょう。私も参加出来てありがたいことでした。I love you.そして ありがとう!
さてさて、1月28日に「いずるば」ワークショップで庄﨑さんをゲストに迎え行います。LIVEと共に、ちょっと深~い話まで行きたいと思っています。これは楽しみ!