「いずるば」ワークショップ ゲスト編 岩下徹

「いずるば」ワークショップ ゲスト編vol.3 岩下徹

「いずるば」ではいろいろなことが「出り(いずり)」ます(そんな単語は有りませんが・・)。
それは、なぜ。

朝起きるとまず家族の中での役割(親・子など)をし仮面を付け、外に出ると通行人をし、電車に乗ると乗客になり、運転手となり、仕事場につけば役職をし、得意先になったり、営業をしたり、先生になったり、生徒になったり、苗字・名前を「〜さん」「〜君」で呼ばれ、病院に行けば番号で呼ばれ、店に入ると購買者になり、ホールやライブハウスにいくと聴衆になったり演技者になったり・・。毎日毎日瞬間瞬間いろいろな役を演じます。「社会人」として「社会」に適合する、上手く出来ると「良い〜〜」になります。上手く行かないと怒られたり、罰になったり・・・。

ここ「いずるば」ワークショップの場合は、それらを一つ一つ、あるいは一気に、無くすことが出来るようなのです。岩下さんは、「山海塾」の「岩下徹」を止め、先生を止め、ひたすらダンスをします。逃げるところも帰るところもありません。「いつものトオルさん」を止め、身を投げ出しています。

自身を規定している・作り上げている(つもりの)「輪郭」をぼやかして行くと浸透力が高まります。それが次々と波及してその場に居る人々に伝染します。承認欲求もなくなります。そんな時間を共有していることが何とも「有り難く」貴重であることが実感されます。「有り難い」からと言って「後で味わおう」と取っておくことはできません。その場で賞味するしかない。賞味期限「今のみ」。そのためには自分もいろいろな役回りを捨て、名前を捨て、「そこに居る」ことを「する」。それが唯一の掟。それは大変難しく、実は、大変簡単。

第1部のデュオが充実して終わり、ちょっと長めの休憩になると、竜太郎さんが「アニキ〜、動きたい」というのでゲリラ的にLIVEが始まり、車椅子の方も参加して踊り出す。そんな「休憩」を経て対談。岩下さんの分かりやすく親しみやすい口調と笑顔で話はドンドン膨らみました。参照として持ってこられたDVDの映写もありました。その中にはちょうど一周忌を迎える黒沢美香さんと岩下さん・私の京都でのトリオもあり、個人的にしばし追悼しました。この時もさぞかし痛かったのだろうな(私と同病でした。)という想像もリアリティをもって感じることができます。

逸脱を可能にするものは、日頃の訓練だったり、鍛え上げられた技術だったり、経験・自信だったり、自分の整理・理解だったりするのですが、加齢や病気などでそれが低下して行くときには、「開くこと」(それも野外・自然の中でが有効)のみが逸脱を填補してくれるのでは、というアドバイス、「新しいもの」などありはしない、一瞬立ち止まり、次を待つ、など優しい眼差しでグサッグサッとくる言葉を連発してくださいました。
いままでのゲストが三人とも知的で明晰なフランス人だったのに対比した話題も上りました。個人のこと、解放のこと、即興のこと、どこかが西洋人とアジア人・日本人と違うのではないか?というトピック。勝ち負けに関係のない「〜道」(武道とか芸道とか)、祭りへの全員参加、などが参考になるのではと言う提案を考えるヒントとして投げかけました。

ラストの30分は、再び実践。今度は皆さん参加です。春日大社の警しつを元にした呼びかける声をきっかけに、声を止めたり、また出したりしながら岩下さんのダンスは続きます。もう何も指示する必要が無くなってきて、自由な時間に移行。おのおの逸脱しながらも全体も保っています。事前には、「音がなくなったときに音楽が始まる」とか「無言唄・虚階・雪音・残楽・縒合」などをやってみたいと思ったのですが、現実はもっと進んでいました。すぐに変更。
実践後の感想でも「好き勝手なことをやりたくなった」ことと「全体の1部になった」ことのバランスの話題を多くの人がおっしゃいました。矛盾することが矛盾無くある。根を持つこととは根を持つこと。それがこの何時間かの共有で得られた体験でした。こういう体験の後は、来る前の自分とは変わっていることに気がつきます。
ワークショップはあと何回かあります。「出り(いずり)」続けます。