ワークショップのサブタイトルの一つに「音を意識した生活」とあります。
それは世界中での最新の音楽動向を知ることや、民族音楽や伝統音楽に精通することではなく、日常での音を意識することを言いたいのです。
「台所の音」(幸田文)に、見事に書かれています。病気で隣の部屋に寝ている小料理屋の主人が、包丁を任せた連れ合いの料理の「音」から多くのことを見抜きます。彼女にとっては、ご主人がかなり悪い病気であることを悟られまいとしたり、自然に小さな音で台所仕事をしたりしています。音でその人のことが言葉や外見以上に見えてくるわけです。
浄瑠璃「阿古屋琴責め」では、嘘をついていないかを確かめるために、お白洲で、箏や三味線を弾かせます。嘘をついていると音が違ってきて見抜いてしまうと言うのが通底しているゆえの筋なのです。
能「絃上」では、藁葺き屋根に落ちる雨音が、琵琶の音を合わないので、屋根の藁を工夫して良いハーモニーにする。
私が時々演奏で使う笛は江戸時代の按摩笛のレプリカなのですが、男笛と女笛があり、按摩さんが男か女かを笛の音で聞き分けていたのです。
西洋の知は、この二十五世紀というもの世界を見ることに汲々としてきた。それは、世界が見取られるものではなく、聞こえてくるものだということを理解しなかった。世界は読み取られるものではなく、聴き取られるものなのだ。科学はいつでも感性を監視し、手なずけ、抽象化し、去勢しようとしてきた。生とは騒々しいものであり、ただ死だけが静寂であることを忘れて。労働の雑音(つちおと)、人間の雑音(ざわめき)、自然の雑音(ものおと)。買われ、売られ、あるいは禁じられる雑音(おと)。雑音の聞こえぬ所に、何も起こりはしない。今や、眼差しは破産した。われわれの未来を見ることが出来ずに、ただ、抽象、無意味そして沈黙からなる現在をつくりだしてしまった眼差しは。今や、社会を、その統計によってではなく、その雑音、その芸術、そしてその祭りによって見極めることを学ばなければならない。雑音を聞くことによって、人間の、そして数字の狂気がわれわれを何処へ導いているのか、さらに、今なお可能な希望とは如何なるものかが、よりよく了解され得るであろう。(ジャック・アタリ)
大部屋に入院していると、足音、呼吸する音、衣擦れの音で、どの方かが分かります。人間は音なのです。体内の水分が揺れて微弱な音(雑音)を出していて、それが共振したり、ぶつかったり、ハーモニーを奏でたりするのです。ビブラートもその道具。同じ楽器を弾いても「誰」が弾いているかは分かります。それだけ違うのです。〜Hzの音が何を表す・身体の何と関係する、とか盛んに実践・研究が行われています。
ならばこそ、周囲の音にも敏感に対応すべきでしょう。それが「音を意識した生活」です。ケージの「4:33」、無言唄、虚階、雪音など、音が鳴らない音楽で、周囲への注意を喚起しました。BGMの醜悪さに抗議したり、換気扇や冷蔵庫・自販機などの暗騒音をもっともっと気にするべきではないか、そうすることで日常が豊かになるのではないか、という提案なのです。色も同じではと思います。
更に進めて、音楽は音が鳴り終わった後に成立するなんて飛躍してみたいのです。
https://www.facebook.com/齋藤徹のワークショップ-270624306698714/
今後の予定
11/18 ゲスト 岩下徹(ダンサー)
12/23 レギュラー
1/28 ゲスト 庄﨑隆志(聾の役者・ダンサー・演出家)