ハンディキャップの人と付き合うときに気をつけることは多くあります。生まれてから身の回りにハンディキャップの方がいなかったことがあり、初めて学ぶことが本当に多くありました。思い出してみれば、「差別」も身の回りにはほとんど無く、もっぱら高度経済成長と受験競争の中での東京渋谷の子供時代でした。
竜太郎さんと付き合うようになったときにまず気をつけたのは自分の中の「偽善」からの解放でした。こちらは「良いこと」をやっていて「教えて」「にっこりして」「ああ、天使のようだ」と思い、自分の気持ちを満足させ「良いことをした」とすがすがしく家に帰りますが、次に会うまで半年も会わないこともあります。しかし、彼の日常は毎日続くのです。(それはドイツでの自閉症プロジェクトの時も注意したことです。私達は、精一杯、演じ、讃辞され、終演を迎え、打ち上げをし、お金をいただき、善意の固まりの中を帰国し、次のプロジェクトに移りますが、彼等は変わらない日常が続くのです。それを決して忘れてはいけません。)
竜太郎さんの日常で起る、理解の全くない先生の話、バイト先でのネパール人のいじめ、などを聞きます。何かの拍子に、口惜しかったことを思い出し、急に怒りをあらわにします。何が起こったのか?と感じるほど凄まじい怒りなのです。私としては、ともかく偽善心から自由になることがまず必要であることを悟ります。そんなもので対応できるわけはない。
彼は、3~40代の男性として生理的な悩みもあるでしょうし、将来への不安は、想像できないほどあるでしょう。誰が味方か?敵か?しっかり即座に判断する力を身につけているはずです。
喜んで貰う、可愛がられる、愛されることの「技術」を無意識のうちに身につけているでしょう。
次の私の問題は、「彼は、我々と同じなんだ。」と思うことでいろいろなことを考えないようにしようとするココロとの戦いでした。たしかに「同じ」です。が、「違う」ことも決して忘れてはいけないのです。身体に起因するdisabilityは幾つもあります。「なんて素直なんだ!」と、じわ〜っと感動していると、直ぐに「憎たらしく」反抗・否定することもよくあります。「弱い」自分を守るための必然・必死なのです。その事実を事実のまま受け取り、「待つ」ことが必要です。
また、彼のダンスを「よかったね〜」ばかり言っていてはダメ。「良かった良かった」には、ダウン症にしては良かった、ということが潜んでいたりします。時には、嫌われ役になってイヤなことも言わねばなりません。
彼としては聴衆に「喜んでもらえた」ことを記憶していて、また喜んで貰おうと自分をコピーする傾向がありました。それは、我々のパフォーマンスと同様に、間違っています。その時、その場、その環境にだけなりたつliveなのです。じっくり信頼関係を築き上げながら、言わずもがなの注意を何回もしました。一回納得すれば、彼は決して忘れません。(たとえば、随分長い間、戦うヒーローの振付を繰り返していました。それは、日頃、理不尽にいじめられている「悪」への「正義」の鉄槌なのかもしれないのです。)
それらのことは、たまたま気がついたことで、「教える」ということではない。私は私の生き方を掛けて対峙しなければなりません。
この1年、私は死の淵を垣間見て、戻ってきてからますますその思いが強くなりました。今回、岩見沢アールブリュットフォーラムで竜太郎さんと一緒にワークショップをやろうと思ったのは、私が彼から学んだことを共有したいという気持からでした。
今、竜太郎さんは、集中して、身を投げ出して自由に踊ることという新たな段階に来ています。
ここでさらに注意しなければならないことが浮上してきます。
これらは、私の体験から書きましたが、彼の方からの言葉ははっきりとは聞き出せていないのです。
かつて共演した劇団「態変」(大野一雄さん、元藤燁子さんもご一緒でした)の主張、「青い芝の会」の主張(原一男さんの第一作「さよならCP」にもあります。)東田直毅さん・イド・ケダーさんが明らかにした自閉症の人の心の内。
まだまだ何も知らないに等しい。すこしでも隙間を埋めたいものです。
写真:諏方洋子その他