徹亭 寝菊松
 
聴く(菊)待つ(松)信じる(寝)がともかく大事。
 
色紙に何か書いてくれと言われると、昔から「聴く=待つ=信じる」とかなんとか書いていました。
聴くことと待つことと信じることは同じ、それを実践することこそ人生だよ、と薄々気がついていての事でした。
 
今や、実践しかない日々です。
 
「できることはなんとかできるし、できないことはなんとしてもできないのだな〜」と嘆息していると一昨日誕生日を迎えた娘から「ちょっとは分ってきたんじゃない?」と褒められました。
 
無理なときでも無理なりにやってきた人生でした。それが自己満足的な「誇り」でさえあったのです。それは仕事の内容を雑にするし、実は、やっただけ(自分での評価でしかない)、中味は関係なくなって来ていました。そんな積み重ねに身体がNOと叫んだのが今回の顚末かもしれません。
 
 
毎日言うことを聴かない身体と話し合っています。本当にできないときはできないのです。それを還暦過ぎて大病を過ぎてやっと分ってきたのでした。本当に分ってるね?てっちゃん。身体の言うことを聴いて・信じて・待つのだよ。
 
早朝の徘徊を再開して2週間経ちました。だいたい70分のコースです。(なるべく土の上、なるべく車や人がいない、なるべく緑や樹や花や草があるコース)70分、腕を回し・ねじり・よじって痺れの対策をします。そうやっている怪しい私には誰も近づきません。
 
新たに気がつくのは「樹は」いつでも「待ってくれている」ということです。
 
調子に乗って毎日9㎞走っていたときも、糖尿で毎日歩いたときも、今回の手術のための体力維持・増強で歩いているときも、同じ樹が同じように待っていてくれました。ありがたいことです。途中で不意に彫像が現れます。いつも自分のダメな箇所と同じ処をさすって、お願いしますと勝手に願を掛けていました。
 
生命史のある時点で、「樹」は「動かない」という選択をしたのです。随分な選択をしたものです。
 
宮沢賢治さんの「土神と狐」を小林祐児さん・内田慈さん・広田淳一さんと何回もやっています。(次回は11月11日日本橋三越の予定。)いつも思うのは、樺の木が「動かない」ということです。賢治さんは、生きとし生けるものの差別はしませんので、土神も狐も樺の木も生き物として同格に扱っています。
 
樺の木(女性)を巡る土神と狐の三角関係とも見て取れますが、樹が動かないというのがある意味で鍵となっています。
 
樹は待っていて、外で起ることを眺め、積極的に動けない分、花を咲かせたり、実を付けたり、虫たちを誘き寄せたり、動物たちの目を、気を引きます。
 
動物たちが右往左往したり七転八倒したり泣いたりわめいたり嘆いたり喜んだり飛び跳ねたりして居るときもじっと待っています。
 
忘れた頃行って、その存在を思い出し、頭を垂れ、さすって、撫でて、何とも言えない有難い感じを受けます。
 
こんな樹の松や楓、スプルースなどを使ったコントラバスも待って、聴いて、信じてくれるのです。もう少し待っていて下さいね。私はどんな状態でも身を任せねばダメでしょう。はやく痺れが引いて楽器を弾きたいものです。なんという贅沢!!
 
三つ目の写真は今年のゴーヤ栽培です。白いゴーヤも一株あります。暑すぎたり、低温だったり不安定な夏ですが、充分苦い実を付けています。