下手さ・弱さの効用

「下手」の効用

昨日の投稿が多くの人の興味を引いたようです。少しつっこんで考えてみます。

「弱さが大切なんだ。」と言う台詞が忘れられません。Tarkovsky監督の映画「ストーカー」です。「科学の発展といっても、楽がしたかっただけじゃないか」という台詞もありました。暗黙の内に強さ、速さ、効果、お金、権力などを求めてしまうようになっている身に響きます。

矢萩竜太郎さんと共演していると彼のもつインクルーシブな力を感じます。彼(ダウン症)の存在がその場の雰囲気を一変させます。強さ、速さ、効果、お金、権力、無意識に縛られているものども、そんなもの大した物でないんだという開放感、解放感が自然に訪れるのです。違う発想が生まれ、違う窓がパタンパタンと幾つも開きます。

ポートレートを撮ってもらうときに、レンズを向けているのが「誰か?」でその人の表情は全く変わります。空間を共有している人間同士の「共振・共感」は、しばしば論理・合理(当たり前・常識)を越えます。

コテコテ、豪華・金ぴかの美から、ほとんどを捨てて残ったモノから「わび・さび」の美意識が生まれます。ハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」は膨大な戯曲を書いて、そこから大事な部分を全部廃棄して残ったものを上演戯曲にして成功しました。土方巽さんはわざと「下手」なピアニストを選んで共演したと聞きました。

そういうことが「下手」の効用に繫がっていく?
当たり前を疑う、という即興・創造の元をギュッと宿しています。

科学の発達は止められるものではない、とよく聞きます。人の好奇心・探究心は善悪に無関係で、原爆にも行き着くということ。

演奏の現場を考えると、「効果」というのは、コピーを元にしています。こうしたらこうなった、こうなるともっと面白い、という繰り返し。特殊技法だったり、イフェクターだったり、飛び道具だったり、です。

コピーだとするとそれは、想定した効果を求め、その間の時間を無駄にし、いま・ここ・わたしを無視し、共演者・聴衆を無視。すなわち創造を拒絶します。およそ即興と反対です。

共演者、受け手、聴衆にとってみれば、容易に先が見えるので、「楽に乗れる」し、向こうから歩み寄ってくれ、エンターテインされている感覚ももてるので、悪いことばかりではないのでしょう。

効果は「上手さ」の仲間です。効果とはもともと「本質」を伝えるためのもの。それがいつしか、効果のための効果になってしまっている。評価しやすいし、商売に馴染みます。

そんなときに「下手さ」「弱さ」の効用が必要になります。
上手さや効果に辟易して飽和している時、下手さ・弱さが貴重で必要になる。

かといって、偽りの下手さ、噓の弱さをだすのは決定的に違う。
身を投げ出してありのままでなければなりません。

格差がどんどん広がっていく社会、相模原の事件、優生思想、差別、ナショナリズムが頻繁にトピックになる現在、とても重要な切り口になると考えます。