クセニティス(どこへ行ってもよそ者)

クセニティス(どこへ行ってもよそ者)

テオ・アンゲロプロス監督の「永遠と1日」の中の台詞で引用されている言葉です。(脚本:トニオ・グエッラ)。詩人が母国の革命賛歌を書こうとしましたが、母国語を知らなのです。そこで母国語の中から知らない「コトバ」を民衆から買い求めている。その中の一語です。とても印象的だったので、この台詞に作曲をしました。

この言葉にグッとくる人はとても多いのです。いや、むしろほとんどの人がそう感じていると言っても良いのかもしれません。「普通」とか「多数派」とは作り上げられた、あるいは自らが作った(共同)幻想なのでしょう。同じ人生を歩んだ人がいないように、1人1人別。一人で生まれ一人で死んでいくのですから、皆、どこへ行ってもよそ者です。

Everyone is an exception.(みんな例外)

伝統の世界では、「異端」と「異端」の点が結ばれて「本流」を作ってきました。「異端」者は異端たろうとしたわけではありません。しかたなかったのです。それしかなかった。その「強度」こそが絶対必要不可欠です。やりたいわけでもなく、いや、むしろやりたくないのに「なにかに」「選ばれて」しまって、その身体を借りてやりつづけざるをえない異端者たち。

それに対する本流とは見本の人形とフォロワーの群でしかない。その社会内では「クセニティス」意識をもつことは外見上禁止されている。「そうじゃないよね」と互いに確認しあい、励まし合い、排他つつ、裏腹に「異端者」の登場を影で待ち望む。

それぞれの人がそれぞれの「音」をもっています。それは個人個人で違う周波数を持つ。近い周波数の人同士は却って「うなり」を生じて意見が合わなかったり、オクターブちがっても同じと思ったり、出していないオクターブが聞こえてきたりします。

例えばオーケストラに同じ楽器の奏者が複数いるのは、ほんの少しずつ違う周波数がまとまると塊を「良い」と感じるからでしょう。それはビブラートの生まれ・始まり、ビブラートになる前の原型でしょう。完全に同じ周波数を合わせても面白い音にはなりえません。同じ音程の音を違う楽器で弾くのは、倍音が違うので面白いのです。ユニゾンこそハーモニーの始まりなのです。

純粋は弱く、雑種は強いという法則を身体は知っています。

たしかにEveryone is an exception (みんな例外、みんな違う)ですが、それが、個性かというと視点が違います。

私はみんなとは違うのだから同じような表現はできない、と考えて自分だけの得意技をあみ出し、それを特許のように、毎回繰り返し、抽斗の中の技を全部出し切るのが即興と思ったり。奇をてらったりすることは個性にとって邪魔なだけで、時間を奪うだけで、中心から遠ざかるだけなのです。(効果は本質を隠蔽する。)

個性というものがあるとすれば、同じ事をしている中でこそ見えてきます。

そんな孤独な人々を繋ぐ役割を音楽や美術、文学、ダンス、映画などが担っているのでしょう。
縦に繋がることで横に繋がる線を幻視する。

文庫本を手にしながら「なんでこの作者は、私のこんな個人的なことまで知っているのか?」と身震いをしながら、もしかしたら隣の人も同じ事を感じているのかもしれないと想像する。

音楽を聴きながら「なんで私はこの音楽をこんなに好きなのだろう」と虚空に向かって答えのない質問をくりかえす。空の果てに同じ仲間を求めているのか。

身の回りには音楽になりたがっているものがあり、美術になりたがっているものがあり、詩になりたがっているものがあり、ダンスになりたがっているものがあり、その出口を求めている。選ばれてしまった身体は、なるべく素直にそれを出す。詰まらせてはダメだ。身体が壊れる。

出てくる時に色づけされるのがかろうじての「個性」、それは、どうでも良いものなのかもしれません。