話の規模を大きくしていくと陥る孔も大きくなります。
まず注意したいのは、言い訳にしない、ということでしょう。
「だって、人間だもの」のように自分の都合で、悪かった部分、出来なかった部分も無し(OK)にしてしまう危惧があります。自己愛はいつでも顔を出し、判断をにぶらせます。
話が大きくなると、自然に矛盾も含んできます。こうとも言えるが、そうとも言える。都合良くそれを振り分けてしまいがちですが、ちょっとしょう。信じるために疑うのです。より信じるためにより疑うのです。
「喜怒哀楽」は表現ではない、その間にある、ジャンルに入りきらない感情こそが表現だ、と言ったのは太田省吾さんでした。ずいぶん刺激されたものでした。最後にお目に掛かったのが京都造形芸術大学春秋座での高田和子さん主宰「帰ってきた糸」公演でした。一緒に仕事したかったな〜。
今現在、「間にある感情」というより、全部含めた感情という方が私にはピッタリします。根を持つことと羽根を持つこと両方共、そういう考え方をするようになりました。
好き・嫌い を尺度にすることを危惧したのがジョン・ケージでした。
好き・嫌いは、いくらでも操作されます。メディアやマスコミによって好きにさせられ、嫌いにさせられます。いつしか、自分の意見と思い込みます。快楽主義や反知性主義へど〜んと流れていきます。「これだけは譲れない」なんて言っても、本当にそう?好きでも嫌いでもない、ではなく、好きだし嫌い、それこそ実体に近い。
本当に好きなのか?嫌いなのか?を問うことは、表現の大きな役割になります。時間の流れを止めるからです。
同じく、「カッコイイ」「涙」にも要注意。
何でも片付けてしまう魔法の言葉「カッコイイ」「感動して涙が出ました」。ただし、その先には行きにくくなります。判断停止。
カッコイイで片付けないで、なぜカッコイイと思うのかまでは考えたらどうでしょう。そこには優生のDNAがある?
何かに感動し、泣いている自分に感動して、自己満足で終わってしまったらいかにも中途半端です。というか、モッタイナイ。
その(涙の)先にこそ、わくわくするような感覚や、発見や、共鳴・共振が待っているのです。もっと欲深く行きましょう。
「その先・外」に拘ったタイトルを付けたのがエリック・ドルフィーでした。フルート・アルトサックス・バスクラリネットを自在に使い、ジャズのビッグネーム、チャールズ・ミンガス、ジョン・コルトレーンらをサイドマンとしてバンマスを焦らすほど大いに刺激し、サードストリームには欠かせない演奏家として、リーダーとして大活躍、わずか36歳でベルリンで客死(糖尿病)してしまった天才です。完全なフリーインプロビゼーションには行かず、ある程度の音楽の制約を大事にしていました。彼は、一体どこへ行こうとしていたのでしょうか?
Far Cry (叫びも聞こえないほど遠く、大違い)
outward bound(外へ)
out there (あっちへ, 行っちゃってる、イケてる)
out to lunch (ランチで外出中、正常では無い、異常、正気でない、今日耳日曜?)
other aspects (他の側面)
looking ahead(前を見て)
straight ahead (真っ直ぐ前に)
here and there(此所・其処)
where(何処?)
もっともっと欲を出して行きましょ〜!
欲が出ればもっと深く楽しめ、これでなくっちゃ生きていても仕方ないぜ!まで行けます。