蛙の教え

どうしてもこの所の投稿は「いずるば」ワークショップで扱うことが中心になってしまいます。考えをまとめたり、足らないことを確認したりすることになります。参加者には「予習」となりますね。

本日も雨天ながらも早朝徘徊にでました。何としても7月ツアー、8月手術用の体力を蓄えねばならないのですから本気と書いてマジです。

昨日から気になっていた虫の移動は、よく見るとちいさな蛙の移動でした。池から丘へ行く群と丘から池・沼へ進む群がいます。

蛙は何を思うことも無く毎年同じころに一斉に移動するわけで、栗の花の香りが一斉にして、薔薇は花びらを散らせ始めます。もちろん蛙は去年の蛙ではありません。何と言っても『天行健』なり、なわけです。天行が「正しい」のではなく「健康」なのです。この違いも面白い。

前回のワークショップでも、「自分にきく」ことがトピックになりました。

どの深度できくか(聴く・聞く・貞く)が重要です。実践ふりかえりの際にも「自分に聞こうと思って始めたのですが、はじめてしまうと忘れてしまって」というような意見も多かった。

聞いてみて答えてくれる、ものより、聞かないでも「知っている」ことを意識してみたらどうでしょう?

身体が熱を出すのは「身体が闘っている間、余り動かないように」、「痛い」のは、痛くないと身体をドンドン傷つけてしまう。その身体レベルでいうとどうなるか?

音程が外れているとヒトは「あっ、外れている」と分かります。「あ〜素晴らしい曲だ」「ん〜、ヒドい音楽だ」と分かります。音楽以外でも、良い絵だ、マズい書だ、良いダンスだなどなど・・・「名曲」「名作」が生まれ、引き継がれる理由は一体全体 何?

鑑賞するのでなくても、自分で描いても、書いても、作曲しても「あ〜うまくできた!」「ン〜イマイチ」ってかなりの確率で正しかったりしませんか?
その尺度・基準とはいったい何?

それこそ身体が知っていること、記憶が知っていることなのかもしれません。
ガッコで習った音楽・美術・体育ではなく、良いもの・悪いものを識別できる。良いものを楽しむことが出来る偉大な能力です。良いものをシェアする力をシェアしているものの根本は何?

簡単に言えばそれは「自然に沿っている」ことと無縁ではないでしょう。身体は自然そのものです。

私は時々、楽器を横にして琴柱のようなものを弦に挟み、2本の弓で楽器を弾いたりします。それは、自分の培ったテクニックを使わない方法としてあみ出したものです。

自分のテクニックを使わなければ使わないほど「良い音」がでるのです。だんだんこの奏法も「上手く」なっていってしまうという矛盾はあるのですが・・・・

自然な流れというと、フィボナッチ数列とか黄金分割、f分のⅠの揺らぎ、とか数式で表すことが出来るのかもしれません。神の数式なら答えはでているのでしょう。

知っている、ということのミラクル、それに従うことの心地よさよ。

そして、

伝統とは異端と異端が点と点で繋がったものという自説も、その説と矛盾せずにあるということ。

ヒトはあくまで自由であり、しかも、「自然」に完全に縛られているし、自分を所有できないし、根を持つことと羽根を持つことを願い続ける矛盾に満ちた存在。