無絃琴

 

「いずるば」ワークショップで、一弦琴を使っています。(これは10年前に旭川のモケラモケラで実践したことのあるものです。当地では石狩川の流木などで各人が作った素晴らしいものでした。)今回は、流木を楽天で購入という人もいらっしゃるとのことです。時と場所の違いも鮮やかです。意識せずとも、まさにハッキリと今・此所・私を表しているものですね。

ともかく、自分で音をだすことが素晴らしい体験になります。聴くばかりではなく、出す。愛しいものです。小さな音だって、情けない音だってかけがえのないものです。

リズムとは何か?と言えば天行健なり(大元は、天体の動きですので、間違いようが無いのです。)夜の次には朝が来て、冬の次には春が来ます。心臓は頼んでいないのにずっと脈打ってくれています。

リズムを出す、のではなく、とうとうと流れるリズムに身を委ねる、投げ出す、合わせる、乗る、という意識が大事です。リズムを外すなんて出来やしません。世の中すべてが即興で自由であり、かつ、すべてが決まっている、太陽の下に新しいものなし!とも言えるのです。

さて、その辺りのことは本番ワークショップに任せるとして、無絃琴の話をしましょう。

夏目漱石の自宅に「無絃琴」と言う名月和尚(18世紀)の書が飾ってあったと言います。沢井一恵さんも色紙に「無絃琴」と書くことがあります。

いかにも禅問答のような言葉ですよね。
大元は陶淵明(帰去来で有名ですね)そして、良寛和尚に引き継がれ、内田百閒さんも小説にしているアジアに長く伝わっている(愛されている・考え続けられている)ものです。

無孔笛(あなのない笛)とか、釣り糸を垂らさないで釣るとか、菜根譚には「無絃の琴を聴き、無字の書を読む」などいろいろこの種のことが言われてきました。

淵明不解音律(陶明音律(いんりつ)を解(げ)せず)
而蓄無弦琴一張(而して無弦の琴一張(ひとはり)を蓄(たくわ)う)
毎酔適輒撫弄(酔うて適(かな)う毎(ごと)に輒(すなわ)ち撫(な)で弄(もてあそ)んで)
以寄其意(以てその意を寄(よ)す)

陶淵明は酔っ払ってエアー琴をやったということですよね。

静夜草庵裏
獨奏没絃琴
調入風雲絶
聲和流水深
洋々盈渓谷
颯颯吹山林
自非耳聲漢
誰聞希聲音

夜の静寂(しじま)の草の庵(いお)
弦(いと)なき琴を独りひく
調べは雲間に入りて絶え
声は川面(かわも)に深く和(わ)す
洋々(ようよう)水の音(ね)渓(たに)に盈(み)ち
颯々(さっさつ)風は木々(きぎ)を吹く
耳に届きしその音の
奥の調べを聞くは誰(たれ)

これは良寛和尚作です。

沢井一恵さんはジョン・ケージの4分33秒をライブ録音しています。
『虚階』や『無言唄』の例もあります。

天籟・人籟・地籟という荘子の音楽論へ、海童道の思想へ、ミッシェルドネダの音へ どんどん拡がっていきます。

音は聴くものではない、
演奏が終わった時に音楽が始まる、
ノイズは終わった後の沈黙を深めるためにある
音楽は終わった後のためにある
などという挑発的なことをワークショップで言っています。

無人島へ音楽CDを1枚だけ持っていくとすれば何?という質問があります。

あるミュージシャンは、ヒットチャートが書いてある紙、と答えたそうです。

ヒットチャートさえあれば、すべての音を脳内再生できる・・・とのこと。

音楽はいつ、音楽になるのか?
ダンスはいつ、ダンスになるのか?

一弦琴と無絃琴から、どんどんと想像へ拡がっていきます。

第3回ワークショップは6月3日。