リハーサル終了

リハーサル四日目。
これでブッパタール自閉症センターでのリハーサルは終了です。
さらに細かい所に集中してやることが出来ました。私は浮腫みによってフラフラ、目はショボショボでしたが、気づかせること無くできたようでシメシメです。

何事も無いようなこの施設でも毎日毎日びっくりすることどもが起こっているのでしょう。

夜は、「リハーサルお疲れ様会」で馴染みのトルコ料理店ハイヤットに全員集合。私も赤ワイン一杯呑むことが出来ました。ハイヤットでは、エルドアン大統領に反発し、トルコ産のワインもウゾーも販売を中止。こんな対応も大事だなと思います。

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本日頭を過ぎること:

もちろん「学ぶ manabu 」ことは「真似ぶ manebu」ことから始まります。真似ることが学ぶことと一致していることも数多あります。赤ちゃんはオトナのことを真似ることで言葉も立ち居振る舞いも学んでいきます。

空気を読んだり、忖度したりすることがついて回ります。こういう言葉は現在、特に悪い意味で使われることが多いですが、他人の気持ちを察するというとても大切な人間関係の能力でもあります。人の気持ちになることは完全には出来るハズはありませんが、想像力や知恵を働かせてできる限り人の気持ちになることは悪いことではありません。(名詐欺師は人の気持ちをよく分かるのかもしれません)

自分を無にして全体に同期する、歯車の一つになる、ということがさも古く悪いことのように言われています。同期しない、個性を発揮する、と二律背反するものではなく、コインの裏表であることが望ましいのかと推察します。

自閉症に人達が空気を読まず、比較せず、真似をしない。「比喩」の意味がわからない、勝ち負けがわからない、というのは、あまりに比較し、真似をし、忖度し、勝ち負けに拘る現代社会を鏡として映し出す優れた特色かと思います。

しかし、そればかりに囚われてはイケナイのです。空気を読み、空気を読まない。同期せず、同期する。個性を発揮せず、個性を発揮する。この所何回も言っている「根を持つことと羽根を持つこと」を矛盾無く実施することが出来るのではないか。

荘子の音楽論:人籟・地籟・天籟 でいえば人から地へ、地から天へのベクトルに沿ってすすむことは出来ないのか?

例えば、今やっているダンスシアターで、音楽が思いっきり全体の歯車の一つになる、オリジナリティなど考えもしない、フツーでいい、という謂わば舞台に奉仕する方向で関わると、ダンサーとの関係も、ミュージシャン相互関係も上手く行き、結果としてオリジナリティに溢れた音楽とさえ評価されるのです。

リハーサル中に部屋に入ってくる自閉症の入居者のリアリティが劇を創作中の私たちにギョッとするのは、空気を読まず、忖度せずとも自然に明るく振る舞い、すべてを疎外する程の力ももち、かつ、何事もなかったように場を乱すことも無い、という好例なのかもしれません。(関係ないかもしれませんが、彼らは入ってくるとき、出ていくとき、必ずキチンと扉を閉めていきます。私には、彼らは「閉めたがっている」ように見えてしかたありません)

1人1人の人間はその人の音を出しています。十分に響いている音が共振し共鳴し、どこかが綻んでしまい響くことができなくなった音(人)に、ケアをし、どんな微細な音にも耳を傾けることができれば変わるのかも知れません。

微細な音しかでない人も、聞いてくれる人が大勢いれば自信を取り戻し、その間に綻びも結ばれる可能性もあるのかもしれません。微細な音を無視し、大きな音、綺麗な音、効果的な音ばかり求め、評価される社会では、微弱な音・綻びは弱いもの・足らないもの・取るに足らないものになったっきりで報われることは無く、結果社会全体として豊かにならない。