パスカル・キニャールから
音楽は無色・中立たり得るのか?
「わたしたちは話し言葉によって絶滅させられた妖精のようなものだ。わたしたちが沈黙を破れば、妖精たちは跳ねまわっていたその瞬間にさえ姿を消す」キニャール
「めぐり逢う朝」
アラン・コルノー監督が映画化して世界的にヒットした「めぐり逢う朝」
純粋な音楽信奉者 サント・コロンブと立身出世をしたマラン・マレの師弟関係を軸に物語が展開しますが、この物語は、今昔物語集の盲目の琵琶弾き「蝉丸」の章を換骨奪胎したものです。
彼しか出来ない秘曲を求めて、源博雅/マラン・マレが、通い詰め、3年後のある真夜中、蝉丸/サント・コロンブがたまたまそれを弾きます。その後に二人の会話があります。キニャールによるものが↓。
言葉で語ることのできないものを語るのが音楽です。だから俗世のものではない。王のものではない。
では、神のものですか?
違うなぜなら神は語られるからだ。
耳に?
誠の音楽は耳には語らぬ。
では金に?栄光に?沈黙に?
沈黙は言葉の裏側でしかない。
他の楽師達に?
違う。
愛に?
違う。
愛の悔恨に?
違う
自棄に?
あの供え物に?
それも違う だが供え物とは?
わかった 例の菓子か あれは何でもない。
わかりません。
わからぬ。
死者への贈り物と?
そのとおりだ。
言葉なき者達へのささやかな慰めと?
子供らの影に
靴屋の槌の音を和らげるものに
世に出ることの亡かった胎児たちに捧げるものと。
先ほどあなたは私の嘆きを聞いたはずだ。
遠からず私は死に曲も消滅する
それを悲しむものもおらぬ。
死者を呼び起こすその曲をあなたに託したい。
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「音楽への憎しみ」
音楽を愛するが故に音楽は要らない、憎むとさえ言う作家(ビオラ・ダ・ガンバ奏者でもある)パスカル・キニャールからは多くの示唆と刺激をもらい続けています。象徴としてアウシュビッツの音楽隊を例に引いています。
強制労働あるいは死への行進(「労働はあなたを自由にする」と書かれた門を通ります。「原子力は明るい未来を」という門を喚起します。)をスムーズにするために組織された収容所オーケストラ。(団員になれば多少の食料・生きている時間を優遇されるが、差はほとんど無いに等しい)。その同じ音楽がナチス高官のパーティでも使われうるという事実に絶望する。
私は、アスベスト館のポーランド公演(アバカノビッチとのコラボレーション)に行き、公演後に、タデウシュ・カントールの稽古場、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所を訪れたことがあります。まさにこの門の所に当時のオーケストラの写真があり、この1枚を撮っただけで、その後はずっとうなだれて歩いていました。帰途に寄ったパリでは吐き続け、帰国直後に演劇公演で行った沖縄、チビチリガマでは同じ匂いがして、纏わり付きました。
生き残ったアウシュビッツオーケストラのメンバーのドキュメントを観たことがあります。当時演奏していた曲を耳にすると必ず卒倒してしまいます。
オリビエ・メシアンは「時の終わりのカルテット」を収容所で、周囲に居る囚人ミュージシャンの楽器に合わせて書きました。傑作です。そんな状況で書かれた曲なので、日本では長らく「世の終わりのカルテット」と誤訳されていました。世の終わりではなく、時の終わり。時の流れを止めてしまう音楽です。時の流れを止めた時に立ち現れるもの、それは人間の想像力をかき立てます。
第3帝国のオーケストラとしてのベルリンフィルのドキュメンタリーが書籍とDVDになっています。オーケストラ内でのユダヤ人団員との確執とともに、フルトベングラーと一緒に音楽を作る喜び、他のものでは代えがきかない無上の気持ちを語っています。
一方彼らは、ヒットラーの誕生日記念でゲッペルスの演説の後、演奏したりするのです。演奏家として、問われる大きな問題だと思います。(「だってしょうがない」と言わない強い意志があるか?)
音楽には魔力があるのでしょう。ストラビンスキー「兵士の物語」を引用するまでも無く、魂を悪魔に売り渡して音楽を手に入れるという話は民話となったり童話になったりしてたくさんあります。
最近、パスカル・キニャールの新たな和訳シリーズが刊行され始めました。「ダンスの起源」というカルロッタ池田さん関係の本も、「音楽への憎しみ」の新訳もあるようです。要注目します。
音楽関連では「音楽のレッスン」もとても刺激的な本です。
「だってしようがない」と言わない。「これだけは譲れない」と言わない。この相矛盾する2項目を心に深く刻んで行こうと思います。