袋の綻び

初めて食べたものでも、「おいし〜」とか「まずい〜」とか決して間違えず言うことができます。
学習や経験の記憶によって決めるのではありません。

音も同じかもしれません。

あっ、その音、違っている、と分かります。
(単に音程が悪いものもわかる)
逆に、この曲は素晴らしい!この音はスゴイ!とか、初めて聴いても分かるわけです。

すなわち、この「身体」が予めすべてを知っていて、そこに「合う」か「合わないか」でキチンと判断している、と言えるのではないでしょうか?

さらにさらに言えば、美術でも文学でも「身体」が知っている真実に「近い」あるいは「沿っている」ものを「良いもの」と感じ、判断する、それがf分のⅠ(1/f)揺らぎだったり、黄金分割だったり、フィボナッチ数列(渦・巻き貝・ヒマワリ)だったりするのが分かるのは後付け。牛や酒酵母にモーツアルトを聴かせたりすることもその流れでしょうか。

自分で作曲していても「これは良く出来た」とか「イマイチ!」とかの判断は直ぐ分かりますし、他者も同じように感じるようです。キビシイ真実です。

個人など軽く越えた「神なる」身体、「自然」そのものとしての身体、という考え方ができるのではないか?という夢想。

雪の結晶の美しさや数学的構造と同じように音楽の旋法も数学から産み出されたものです。

そしてスケール(旋法)、ギリシャで数学から作られたものと、アジア(中国)で作られたものが非常に近いものだったりするのも、基本が身体にあるから、とも言えそうです。

さて、その合っている・間違っているを過たずに言える理由はどのあたりにあるか?

いやはや巨大な問いです。ワークショップでの最大のトピックとしてユックリ展開して行きたいものです。

とりあえず、今思っているヒントを少し書いてみましょう。

音も色も振動です。

音も色も、ハーモニーについて、ビブラートについて同様に考えることが出来ます。基本になるのはやっぱり38億年の結果としての「身体」、自然そのものである「身体」そしてそこに備わっているはずの感覚。

私が最も衝撃を受けた演劇、タデウシュ・カントール(ポーランドの演出家・美術家)の師匠格にニキフォル(映画になっています。素晴らしい主演女優がニキフォル役の男性老人を演じています。監督はパプーシャの監督クシシトフ・クラウゼ)という画家がいます。台詞の中で「色と色」のハーモニーが良いか悪いか?という問いがあります。色も音も振動だと思い起こせばあたりまえの指摘です。

近似した音が同時に鳴るとうなりを生じます。(振動数の差)

それを一人でやるのが、ビブラートの始まりと考えることも出来ます。

オーケストラのように同じ楽器奏者が複数居るということの効果は、機械的に完全に同じ音程は出せない(ニンゲンだもの・・)微妙な音が混ざる良さなのでしょう。

ましてや、他の楽器と共に同じ音程をだすと、倍音構造が違うのでユニゾンではなく複雑なハーモニーとさえ言えます。

そういう事を含めた広義のビブラートは、身体の中の「水」を揺らします。その揺れは、「共振」し「共鳴」して行きます。

そこに、蛍の点滅がいつしか同期するような現象、複数のメトロノームがいつしか同期するような現象へ変化したりすることも有り得ます。

「揺れ」とは、「混ざること」「混ぜること」に直結します。

混ざるとは2つ以上の素材が化学反応を起こす、反応するとは、純粋から雑への変化です。純粋とは「弱い」。なぜなら天敵が来ると全滅してしまうので、生物的に優性なのは雑種です。

反応せずに、じっとしていると、腐る、事もあるでしょう。

共振するため、共鳴するために、直接混ざらないこともできるのでは?
膜や障害物を経ても可能なのではないか?
音そのもの、色そのものでなくても振動が振動を呼び起こし、伝わる。
浸透圧を利用しても可。

ミラーニューロン、ミーム、聾の人と通じるときの感覚に近いかもしれません。

人の身体の内部にある「袋」。そこがしっかり閉じていると響きは反響し豊かに混じり合い、外にも振動として流れていく。ただしっかりと待ち・聴き・信じていれば良い。

一方、袋に綻びがあると、気体や液体は漏れてしまい、反響が十分に得られない。ミラーニューロンが発揮しにくい。待っても、聴いても、信じても反応が訪れてこない。

自閉症は、閉じているのでは無く、綻んでしまっている、閉じたい、反響したいという現象ではないか、振れを求めて飛び跳ねる、その目的は、共振・共鳴ではないかと秘かに考えています。

ドイツでの自閉症プロジェクト「私の城」で、しっかりと考え、観て、感じて来たいと思っている所です。

写真:スズキイチロウ