第1回目を終えてまず解決すべき課題は次回以降に「実践」をどう取り扱うか?でした。
私、そして、スタッフが拘ってきたのは、このワークショップが体験を主にするものではない、と言うことです。体験型のワークショップは他にもたくさんあるでしょう。その辺りから考えてみます。
改めて思うと、なんでこんなに「即興」に興味を持つ人が増えたのでしょう?
こんな世の中で、「嘘っぽく」ないものを自然に求め、嘘がつきにくい方法としての「即興」が注目されている、と考えられなくもない。大音量ロックやフリージャズの叫びも、嘘っぽくないところが求められると。
昨今のダンスブーム(もはや単なるブームと言えないほど、長続きしています)も、「身体」という嘘のつけないもの、かつ、みなが持っていて共有・共感しやすいものを使っているからでしょう。
私が即興の話をするときは、「即興=自由=なんでもできる=練習しなくて良い=すべて解決=万歳!」 という夢の式は決して成り立たない、というような、熱くなっている石に水を注ぐようなことばかりから始めます。信じてないのでは無く、信じるために疑う必要を言いたいのです。
音楽だと音響システムで(アンプやミキサー、イフェクターのスイッチを押し、ダイヤルを回すだけで)極大にも極小にもコントロールできてしまいますが、身体はそうはいきません。飛ぶにも、曲げるにも、反るにも、ともかく動きには身体自体の大きな限界があります。その不自由な所こそが魅力になるのです。自分の身体と比較もできるので想像力を発揮できます。
極小というのは嘘があって電気を通すと必ず暗騒音がでています。音が全くなっていないゼロの状態と、ごく小さくてもノイズが鳴っている場合は全くちがうのです。
無音の場合は、音と無音の間に無限の差があるのです。すこしでも音が鳴っていればそれは決して無限の差ではなく、計算できる差にしかなりません。
しかし、「即興」も結構、「嘘」がつけるのです!
その時に利用され、偽装するのが「即興=自由=なんでもできる=練習しなくて良い=すべて解決=万歳!」という例の偽の公式です。
「即興」の対義語を「作品」ではなく、「常識」とか「自分自身」に求める、ことを主張していますので、キビシイと言えばキビシイのです。自分がキビシク問われるのです。そのため、偽装公式が役に立ってしまいます。
「だって楽しければ良いじゃん?だって何でもありでしょ?」
それを避けるためにも、即興についてのある程度しっかりとした考え方が求められるのだと思い、このワークショップで取り上げるときに実践のみではなく、広く大きく捉えることを願いました。
即興ならば、即興で無くてはできないことを、作曲ならば作曲でしか出来ないことをやるべきでしょう。
では、「即興」とは何だろう?ということを自分なりにしっかり把握しておいて欲しいのです。
カリフォルニアのミルスカレッジの即興のクラス(フレッド・フリス専任教授でジョエル・レアンドルも講師に来ていたり、私も授業しました。)は学部にはなく、大学院にのみあります。ヨーロッパの音楽大学でも大学院に即興クラスがあるのです。
思いつきや、ヒラメキは、もちろん大事です。一番大事。それこそが原動力です。が、考え方がしっかりしていれば持続的に展開できるのに、しっかりしていないために短期で終わってしまったり、諦めてしまったりではモッタイナイと老婆心のように思いました。
(その裏にあるのは「やりたくてもやることができない人がいる」ということ。)
また、即興が単なる発散だったり、特殊技法の羅列だったりするのはよくない習慣です。少なくとも生産的ではない。飽きやすい。効果のみに収斂しがちなので、使い方に出来るだけ注意してやれねばなりません。
発散は個人的なもので、発見も、共鳴も、共振もありません。何も起こらない。ストレス発散ならば他の方法をとったほうが良いでしょう。
得意技・特殊技法の羅列も即興とは遠い。これらの悪いところであまり気がつかないのは、「時間」を奪ってしまうことです。その得意技や特殊技法が披露・効果を出すまでに、ある程度の時間を現場から奪います。その間は、貴重な いま・ここ・わたし を疎外し、場を貶めます。回復するのにもたいへんになってしまう。
そして、その効果はコピーであることが多い。エンターテイメントで良いのならそれでいいのですが、即興を名乗ることは無いでしょう。
そんな意思で今後のワークショップの「実践」編は、内容が変わるかもしれません。決定次第お伝えしますのでどうぞご了承お願い申し上げます。
使用写真:スズキイチロウ(1〜3)、齋藤真妃(残り)
熱心な参加者、真剣なスタッフミーティング