自明から脱するために

 

自明からの抜け出すために・・・

脳科学は思いも寄らないことを教えてくれます。曰く、脳は怠け者だから1回納得してしまうともう新たに考えない、曰く、脳の古い層は「主語」が分からない、そのため、ヒトの悪口も自分に言っていると思ってしまう・・でんでん。

「理解する」ということを「分かる」と日本語では言うように、「分けて」判別してしまうと仕事を終えてしまうそうです。太田省吾さんのコトバに「表現とは喜怒哀楽に収まらないところ。」というのがあります。たとえば、哀しいと決めてしまうとそこで終わり、本当はもっと複雑な感情だったのに、哀しいで終わってしまい以後ずっとそのまま。自明になってしまう。

思い込んだらそう簡単には変えられない。だからこそ潜在意識まで入りこみ、今流行の「引き寄せ」も可能なのでしょう。

キャンが自分自身であるのなら、その段階で判断が停まっている可能性あります!そのために、いつでも、私の反応の一歩先を行っているような気がして、惨敗感に苛まれているのかもしれない?と思いました。(「私」って誰?)それではいつまでも被害者意識という自明から抜けられません。なにしろ現在の私ほど多くの素晴らしい・完璧な「言い訳」を持っていることは無いのですし・・・。

その自明の言いなりになっていたら、復帰は遅くなるばかり、復帰できたとしても言い訳で武装するばかりになるでしょう。先延ばし、なし崩し。悲壮感も定着して脚色され、悲劇の登場人物になり切ってしまう。お〜まっぴらゴメン。

ともかく、そこで、逆手にとって脳を・自分を・身体も心も騙してみてはどうだろうか?と思いつきました。思い込んでいる脳の層に「何言ってるの?違うよ?」と当たり前のように行動してしまうのです。

笑っているから楽しいのだろうと脳が判断すると言います。プラシーボの例で驚嘆したのは、抗がん剤と偽って小麦粉を処方したら、多くの人が脱毛をした、という現実。

さて何しよう?

昨年からの私の思い残しの新鮮で鮮烈な記憶としてはバッハ無伴奏チェロ組曲があります。還暦ソロリサイタルで暗譜したはずの音符が飛んでしまって途中で止めざるを得なかったこと。では、それを使おう。

何事も無かったかのように毎日バッハを弾く。身体が震えようと、指先が痺れようと、浮腫でふらつこうが、お構いなし。そんなことまるで無かったかのように、当たり前のように弾く。これです。これをやってみようと思いました。昨日3月1日は六曲全部弾き倒しました。4ヶ月ほとんど楽器に触れる勇気さえなかったのに・・・

失敗こそ最大のチャンスであることをインプロバイザーは骨身に染みて知っています。そしてそれが許されている環境にいるラッキーを使わずして何とする?

これ、ちょっと続けてみます。「私」には秘密です。黙って置いてくださいませ。