来週もダンスとの会が二つ関西であります。ダンスについてもう少し書いてみます。
私が一番好きなダンス関連の言葉は野口三千三さんの「ダンスは何かをさがす行為」です。(音は何かに呼びかける行為)その彼がこうも言っています。
「自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいが、それは二の次のことだ。他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚弄なサービス精神は、みずからを損なうだけでなく、観客を侮蔑し、愚弄する以外の何ものでも無い。自分勝手、ひとり合点、何がなんだかさっぱりわからない。・・・大いに結構。ただ一つの願い!!それは舞台に関係する1人1人のすべてが、ほんとうに自分を大切にして欲しいと言うことだ。ほんとうに自分がやりたいことを、どうしてもこうやりたいのだというやり方を、とことんつきつめて、丸ごと全体の人間としてぶっつかって欲しいと言うことだ。この生々しい強烈な命の火花だけが、観客の主体的創造活動を触発する唯一のエネルギーとなるのだ」 若い時、これを読んで随分勇気づけられました。
この言葉で思い出すのは、ニーチェのツアラトストラ。問うな、ただ踊れ、自分の内なるリズムを宇宙に向かって開いていけ。
そう、言葉で言えることは言葉で言えば良いのです。
身体の中の水が振動し大きくなり、皮膚という輪郭を破り、人々に繋がっていく。これはダンスにしか出来ない芸当でしょう。「ええじゃないか」を体制側がいかに怖れたか。
人を1人1人に孤立させて劣等感を植え付け差別構造を作り上げ、「おれはダメだな〜。あの人のようにもっとちゃんとしなくちゃ」と育てられて来ました。輪郭(皮膚)がしっかりと1人1人を分離する。そこには連帯は生まれません。
しかし、ダンスで揺れ動く身体の水(血であり、血は海の水、海はあらゆる命の源)が共振・共鳴を求めて行くチカラはアッチェルしクレッシェンドします。
理性はすぐに越えてしまいます。この力は膨大なエネルギーになります。小鳥や小魚が集まって巨大な鳥・魚を真似する。蛍の点滅がいつしか同期し、人の鼓動をも刺激し、居ても立っても居られなくする。
だからこそ権力側は歌舞音曲を禁止したり、いっぱしの成人は踊りなどしない、という不文律を浸透させたのでしょう。ノイズを禁止したことと似ています。ノイズで情動を刺激し、統御不能になった民衆のチカラ!最適な音楽を、リズムを、詩を、言葉を、ダンスを与えることが「プロ」の大事な仕事になるのでしょう。
その,まがまがしきノイズを隠蔽するためにキレイな「音楽」が使われると言えるかもしれません。東西のインプロバイザーたちがノイズに寄っていく理由?土方巽さんが評価され必要とされた理由?
感動から「綺麗さ」へ堕ちていった音楽(アーノンクール)。
ナルシズムや寂しがり屋のおねだりではなく、海に繋がるリズムを探し、同期するダンス!