いずるばセッション

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ミラーニューロン・半眼微笑

私なりのダンスとの経験からの現在時点での方法は、ミラーニューロンと半眼微笑です。薄目を開けてダンサーをボヤッと見ます。

しっかり観てしまうと、そこに意味が発生し、意味に「疎外」されてしまいます。(=意味に囚われてしまいます。)そのために意味に捕られる前の状態を認知したいのです。意味に囚われてしまうとそこで脳の働きはストップしてしまう。脳は「分かる」とそこで判断を停止し怠けるのだそうです。

赤ん坊にとってダイヤモンドもガラス玉も価値の差が無いように、書かれた文字は意味を持たない「模様」のように、話された言葉は「メロディ」のように認知することを目指したいのです。

目を閉じて、相手を見ずに、集中するべきだ、というミュージシャン・ダンサーが居ることは知っています。しかし「モッタイナイ」と思うのです。相手の行う「大事な瞬間」を見逃してしまうのです。

ミラーニューロンを意識して、ダンサーと同じ神経を発火させて、演奏はオートマティックに行うことはその「大事な瞬間」を見逃しません。薄目を開けて、口元は微笑を湛える。微笑はミラーニューロンにより伝播します。しかつめらしい顔の伝播では、窓が閉まってしまいます。

その「大事な瞬間」を共有すること(それは共演者ならずとも聴衆も共有します)で時の流れが止まり全体が相対化でき、ダイナミクスが増し、自在に動いていく・流れていく原動力にもなります。それでこそ「今・ここ・私たち」が発現すると思うのです。違う言い方をすると「今でしかありえない」「ここでしかありえない」「私たちでしか有り得ない」時空が出現すると夢想するのです。

かといって、お互い聴き合うことで音が出なくなり、みんなで眠たくなってしまうような流れではありません。少なくともある時間を限定し、場所を限定し、聴取料としてお金を頂く場合は、「気持ちよかったね」では済まないと考えます。

全体のエネルギーを集約したり、放り投げたり、密集させたり、無き者にしたりして、(という人間の行為を付け足す)当たり前を相対化できる時空を作り、全く知らない時空を体験したいのです。

音楽が音楽になる前、ダンスがダンスになる前の状態は共通していると考えます。そこを元にして考えたいのです。それは、即興原理主義とは相容れないかも知れません。即興こそが正しくて、合わせないことが正しくて、過激であればあるほど評価される世界とは違います。時にはリズムに乗るかもしれません。甘美なメロディを演奏するかも知れません。私はそれを肯定したいのです。

最終の目的は何か?それは過激かどうか、即興かどうか、では無いはずです。基本はあくまで1人1人の自分を越えた「願い」でありひたむきな行為そのものだと思います。

そんなことを考えたライブでした。

精一杯やりました。聴衆のエネルギーもたくさん頂きました。ありがとうございました!

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