『時』の意味には『ちょうど良い時』という意味があると言います。(チャンスに近いか。)
かつてミッシェル・ドネダ、レ・クアン・ニン、沢井一恵、今井和雄、私のグループの初演(ヴィクトリアヴィルフェスティバル・カナダ)のCDを作る時ミッシェル、ニンが提案してきた名前が「une chance pour l’ombre」でした。その和訳を「影の時」にしました。ミッシェルと私がアントナン・アルトー祭で演奏したり、彼の著書「演劇とその分身」がアワーブームだったときですので、分身=ダブル=影と連想したのだろうと推察したわけです。
「時」に似た字で「蒔く」があります。なるほどと合点しました。
本年でゴーヤを育てて3年目。毎年の大いなる楽しみになっています。グリーンカーテンとなり日射しを和らげてくれ、緑で目を労ってくれ、おまけに収穫して食すこともできるのです。癌に効くという説もあります。
苗を植え、水を与えただけで、伸び、花を咲かせ、蝶や蟻や虫を呼び寄せ、実を付ける、という単純な自然の作業を小学生の夏休みの観察よろしく楽しんでいました。雑草を取る、肥料を与えるなどの作業は、「どういう意味なのか?」問いかけてくれました。なにもせずに黙々と生える雑草の美しさや逞しさに比して、専ら収穫の為に、いたわり、栄養を与えることの意味を考えさせられました。
ともあれ、本年はヨーロッパからの帰国が5月末だったため、苗を植えるのが6月中旬になりかなり遅くなってしまいました。近所のホームセンターでも苗が残っていない時期でした。
何カ所かから苗を仕入れて(仕入れの時期もまちまちだったので植えるのもまちまちでした。)植え、腐葉土を与え、多めに肥料を与え、水も朝晩タップリ与えました。
グリーンカーテンとしては大成功。さて、そろそろ収穫期かと思う時期に収穫できたのがとても「小さい」のです。小さいまま黄色くなって赤い種を宿し、終わってしまう。ショックでした。理由を考えます。「肥料をやりすぎた=大事にしすぎ=生き延びようとするチカラを削いだ」あるいは単に「植える時期を間違えた」。植える時期説は、広島の大槻オサムさんが確信を持って教えてくれました。
どんなにヒトの知恵(悪知恵?)で、種をいじくり、苗をいじくっても、植物は「時」を知っている、過たないと考えると興味深いです。だからこそ「蒔く」には「時」が入り、「時」には「ちょうど良い時」の意味が有る、と繋がって見えます。
ヒトも時を知らねばなりません。いや、知っているのです、が、埋もれているのかも知れません。ヒトの身体を「自然」の一部と考えるのが好きです。鮭の遡上、鰻の回遊、渡り鳥の大旅行は、過つことは有り得ません。私の中の自然・大自然から学ばずに何から学ぶ?ここに詩情を産まずしてどこに詩情を育む?吉田一穂翁ならずとも、雄大な視野をこそ遊ばむ!行きつけのホームセンターでは今でもモンサント社の「ラウンドアップ」がベストセラーの棚に置いてあります。
ゴーヤ先生からも学ぶ日々です。


