8月29日のソロコンサート、「音楽の底力」さんがタイトルを「音を見る」と付けました。
私の音楽生活にとって大きなテーマであり、音について、音楽について考える大きな切っ掛けになっています。
すぐに思い浮かべるのは「観音」まさに「音を観る」。観世音菩薩(鳩摩羅什訳)・観自在菩薩(玄奘訳)とよばれる菩薩さまですね。(カメラのキャノンの社名の元でも有るそうです。試作器はカンノンと言ったとか。)
そのままをあるがままに見る(正見)ために「耳で見る」わけです。
「耳に見て 目に聞くならば疑わじ
おのずからなる軒の玉水」 (大燈国師)
耳で見る、目で聞く。もしそれができるならば、軒から落ちる水の音がどんなにか自然に響くことだろう。
共感覚を持つ人にはハッキリと音に色が見えるそうです。メシアンさんも見えていたとのこと。
何回も引用していますが、白川静さんの語源研究では「音」は水を入れた神器で神にお伺いを立て、神は水を揺らすことでその答えを出す。嘘をつくと針で入れ墨をする、ということです。 音を楽しむから「音楽」、楽しくなければ音楽では無い、なんて気軽に言ってはイケナイのです。
中国では王朝が変わる時に始めにしたことが「音」を決める事でした。音をだす管の長さを決めたのです。この音律が「律令」制度の「律」な訳です。それは、すべての尺度の元になり、即ち、税金を計る元になったわけです。
首狩り族が戦に行く前にコーラスをして音が合わないと闘いに行かない、という小泉文夫さんの説はつとに有名です。
「自閉症のぼくが飛び跳ねる理由」の東田直樹さんはよく人のしゃべる口元を見るそうです。それは、音を見たいからと言います。
リア王の音楽をやったときの台詞で「目じゃない、耳で観るんだ」というのを強烈におぼえています。リア王役は若松武史(当時は若松武と書いていました)さんでその表情までくっきりとおぼえています。
もっともっと「音を見る」に関する話は古今東西に散らばっていることでしょう。
この日のコンサートは、コントラバスを聴くのが初めての方、日常的に音楽に縁の無い方にも、という主旨だそうなのでそのことを汲んだプログラミングを要望されました。
私のような音楽生活をしている者にとってたいへんチャレンジングな要望ですが、こういう日頃やらないことというのには「チャンス」が隠れているはず。快くお引き受けしてチャレンジしたいと思います。きっと稀なレパートリーが登場することでしょう。