7月8日ソロリサイタル用選曲をしていると・・・その6
ショーロ。
ブラジルの古き良き音楽。涙を意味するとのこと。馥郁たる香りと、ノスタルジー、サウダージを醸し出す。かつ、器楽性・演奏性が濃厚なものもあり、演奏するだけで楽しく、やりがいもあります。
音楽的にはバッハの和声に近く、バッハのようには巨大な建築はしませんが、その分、親しみやすいポピュラリティを持ちます。
コントラバスでバッハの練習をするのが良い、と言いました。春・秋・冬はその通りですが、しかし、灼熱の夏は熱帯の夏と変わりないので、バッハは残念ながら合いません。そんな時はショーロです。最近、サックスのかみむら泰一さんとショーロをやっています。かみむらさん経由で彼の共演者にもショーロが少しずつ浸透してきているようです。素晴らしいことです。
ピアソラはタンゴを、パコはフラメンコを、エリントンやミンガスはジャズ・ブルースを、ジョビンやシコはサンバを、アマリアはファドを、やれば良かった。いや、やってくれればそれだけで必要十分です。ありがたいほどの音楽の恩恵を感じます。
一方、かく言うニッポン人は何をやれば良いのでしょう。いまさら邦楽・雅楽に転向する訳には行きませんし、歌謡曲やJ-popはムリ、浄瑠璃・能狂言も遠いわけです。フォーク?それも向き不向きがありますね。
困り果てた結果、ちょっと見えた光。「こうやってタンゴを、フラメンコを、ジャズをサンバをファドを民族音楽を、平等に愛し、聴き続けることができる」ことは、案外貴重で、案外ニッポン人の特徴であり、素晴らしい点なのかも知れないと思ったことがあります。
追っかけてはいませんが、たまたま見聞きする昨今のJ popの質は(楽曲も歌謡も)かなり低いようです。メロディにハーモニーにうっとりすることはなく、ましてや歌詞に感動することも少ない。そんな時に古今東西の素晴らしい音楽を聴いたり、演奏したりすることは、罪ではないのではないか・・
そう言い訳するのは、随分長い間「好きな音楽と自分が演奏する音楽は違うはず」という自己規制ゆえです。今は、シコやカエターノの歌詞、ジョビンのハーモニー、ショーロの豊かさを追っかけるだけでも豊かな音楽を味わえると思っています。
特に、生ガット弦に替えてからは、ショーロをピッチカートで爪弾き、アルコでなぞるだけで幸せを感じます。そしてブラジル音楽のもつ、クラシックとポピュラーの境目の希薄なことの魅力もいや増しています。
そんなこんなでショーロもやってみたいです。ピシンギーニャとかナザレーとかかな?