このところ多くの訃報に接します。思わずドッキリしたのは、私と同様に糖質制限をして減量、糖尿病を克服し、その良さを世に広めていた同年代のライターでした。ちょうど今、不調が続いているのでなおさらでした。まあ、考えても仕方ないです。
音楽家ではニコラウス・アーノンクールさん。随分昔に、ブランデンブルクコンチェルトの映像であの眼の鋭さに魅入られ、バッハ無伴奏チェロ組曲のガット弦録音に心奪われました。
ちょうど今、バッハ無伴奏の練習中です。体調不良の影響で思う存分練習できないのが実に心残りですが、3月25日は必ずやって来ます。もうすぐ!精一杯用意しましょう。「用意」と言いながら、なにかしら毎回発見があり、その都度に純粋な歓びがやって来ます。もはやバッハはパブリックドメインであってどんなカタチで楽しんでもいいのだ、という風に理解しています。プロデュースのエアジン梅本さんもそういう主旨なのでしょう。
アーノンクールさんの著作には大きく影響され勇気づけられています。
すこし「古楽とは何か、言語としての音楽」ニコラウス・アーノンクール著 音楽之友社から引用します。
「われわれが音楽を全体としてはもはや理解することができなくなって、いやもしかしたらもはや理解しようと望まなくなって、はじめて音楽をその美しさまで引き下ろし、・・・」
「音楽を、感動的なものからきれいなものへと追いやった。」
「音楽が単なる美に、そしてそれとともに皆がわかりやすいものへと身を落としたのが、フランス革命の時代であったというのは偶然ではない。」
「装飾としての音楽はまず第一に美しくあらねばならない。音楽はけっして煩わしくてはならないし、人間を驚かしても成らないのである。」
「ただ美しいだけではありえない。われわれの人生をえぐり出す、つまり煩わしいものとなる。・・・しかし人々は批判など望まなかった。灰色の日常から癒されるための美しさだけが欲しかったのである。こうして芸術、とりわけ音楽は単なる装飾となり・・・」
「われわれは、快適だとか生活に必要だとか思えるもののために、あまりに多くの代償を払っている。よく考えもせずに、快適さというけばけばしいブリキ細工のために人生のアイデンティティを放棄しているのだ。そしてわれわれがほんとうにひとたび失ってしまったものは、もう決して還ってこないのである。」
こんなカゲキな言葉がヨーロッパの本物の「貴族」の音楽家から聞けるのです。ウイーンフィルのニューイヤーコンサートでヨハンシュトラウスを指揮する多くの人達に愛され・尊敬されている音楽家が考えているのです。ジャック・アタリの「ノイズ」と共に、私たちが手にする最高のノイズ論でしょう。
私は生き残り、残りの時間になにをしましょう?
バロック弓は昨年誕生日にバール・フィリップスさんにいただいたもの、木造りの譜面台は小沢昭一さんの形見・・・