韓国ツアー その3
公演終了して翌日、出発まで時間がありました。直毅さんと朝の市場へ行こうと8時にロビーで待ち合わせ、徒歩15分で市場へ向かいました。朝が鮮やかです。(だから朝鮮?)しかし寒いです。おそらくマイナス5〜10度でしょう。地図に強い直毅さんのおかげで真っ直ぐ市場へ到着。沖縄を彷彿とさせる風景です。いろいろな魚・野菜・豆・スンデなどがワイルドに並んでいます。屋台でも食べられますが店に入って朝食。あったまる〜。帰りはあまりに寒くて地下鉄を乗り継いでホテルへ避難という感じ。
お昼は姜垠一・許胤晶さんと土俗村(トソクチョン)参鶏湯へ。人気店だけあってちょっと並びましたがその甲斐は十分有ります。寒いときは特に沁みます。場所を移動して北村の人気タバンで漢方のお茶(鹿の角入り)をいただき完璧なフルコースでした。
おいしいものをいただきながらも、頭の中は昨日の演奏そして、これをどう繋げるかばかりで一杯です。彼ら(韓国)にとっての即興とは何?をヒントに考えると相対的にいろいろと見えてきます。
自己表現を否定するようなベクトルの演奏はここではなかなか通じないでしょう、また、リズムやグルーブがないものは物足りなく感じるでしょう、終わりに向かって聴衆を巻き込んでクライマックスを持って行くことも否定しにくいかもしれません。彼らの演奏に感じる「健康さ」は何かを(音楽を・言葉を・人生を・愛を「信じている」ことかもと思ったことがあります。そしてそれを支えているのがリズムなのかもとも)しかし、長所は短所でもあります。
ふり返って日本の状況・事情を見ると、叫ぶことがどこかで求められている部分があるのではと思います。それは、言いたいことが言えない、通じない社会・日常の反映なのかもしれません。熱演が期待されるのは、空気を読んでばかりの事なかれ主義の日常をぶっ壊したい衝動かもしれません。
一方、若い世代のエレクトロニクス系の即興演奏の身体性の無さは、言うことを聞かない、食欲・名誉欲・金銭欲・性欲に支配されている「下品な」身体を否定したいからなのかな〜?
ともかく、音が社会を表し、現実を表し、未来へのヒントをくれるのは間違いない。
フランスとドイツの即興の違いも思い出します。フランスの、特に私の親しいミッシェル・ドネダやレ・クアン・ニンたちはあらゆる約束から自由になるために即興を選んでいます。演奏の中で、メンバーをこういう組み合わせをこういう順番にやっていこう、というのも認めません。みんなが同格で一緒にやらねばイケナイのです。本番用の小綺麗な服に着替えてはイケナイのです。即興の原理主義?いや、欲が深いのです、ロマンチック(総て、か、無か)なのです。その先、自己表現を否定することにも行きます。表現そのものへのNONもあるのです。
一方、ドイツだと、構成を決めてからの即興もだいたいOKです。その分、自己表現が尊ばれます。違う面から言うと自分の技術・音楽に誇りを持っていてそれは絶対否定しない、ある意味エリート主義に近いかも知れません。
その点で、日本はどうか?どんどん洗練されて良いものを作ろうということが大いに尊重される一方、最後にはひっくり返し「侘び・寂び」に一気に行ってしまったりします。ヘタウマにも通じます。
そんなことをのそのそと考えながら、この企画を充実したものにしたい気持ちはますます募ります。
コムンゴについて面白い繋がりを一つ。
ベルギーのバイオリン奏者・作曲家のBaudouin De Jaerさんがコムンゴの曲・カヤグムの曲を書いています。ソウルに滞在中に書いたと言うこと。そして彼はアール・ブリュの代表格Adolf Wolfliさんの絵画をバイオリンソロに翻訳して録音しているその人だったのです。呪術的楽器コムンゴに惚れ込んだことと何か関係があるか?今もベルギーに住んでいらっしゃるのなら今度のブッパタール滞在中にお目にかかれるかな〜と思っています。どうやって翻訳したのかなど聞きたいことたくさんあります。