This is how I feel about Jazz by Quincy Jones
という録音があり、高校生の時に聴いて唸ったものです。初っぱなにシャッフルの2ビートに乗るミンガスにグッときて、教会ゴスペル風展開にジャズのよき時代を目一杯感じていました。ミンガスはもちろん数少ないベースリーダーとして優れた仕事をしてきていますが、このクインシー、サッド・ジョーンズやJJジョンソン、エリントン、レッド・ノーボ、ポール・ブレイなどのサイドマンとしてのベースもすんばらしいのです。
自分の話をすると身体に4ビートや8ビートが希薄なことはすぐに悟りました。(2ビートや16ビートは結構あります)そのため、4ビートジャズを演奏するにはどこかやましさが否定できません。習ったものでしかない、という感じがしてしまうのです。仕方ないですね。心にブルースも無いし・・・
ジャズとはもともと相容れないものを多層的に含んでいると言えます。その「猥雑さ」こそジャズというのかもしれません。それは演劇に似ています。あらゆるものを内包して演劇は成り立ちます。演じるものと観るものがいれば成り立ちます。台詞がなくても、舞台装置がなくても良いのです。
「1音聴けば誰の演奏か分かる」というのがジャズ演奏のリスナーの自慢であり、プレイヤーの誇りでした。シンプルかつ完全な「自己表現」の世界です。アドリブソロがあたりまえで、強調すらされないことがジャズです。しかし、デューク・エリントンの多くの曲がアドリブ無しです。でもジャズの代表たりえます。
「フリージャズ」の代表のように言われるセシル・テーラーの代表作が「Unit Structure」だし、スティーブ・レイシーは音階に魅せられていてそれに基づく演奏をしていました。決して、何でもありの「フリー」じゃない。逆にそれを避けていたとも言えるのです。ジャズからゴスペル、ロックへ傾倒したアルバート・アイラーは「破壊せよ!」とは言っていません。(中上健次さん、スミマセン)
インプロヴィゼーションは「不可能性の表現」かもしれない、とバール・フィリップスが言っていました。ヨーロッパインプロヴィゼーションの現代の一つの傾向が「匿名性」です。自己表現の正反対です。昨今のインプロヴァイズドミュージックもジャズの範疇に入れてしまうこともままあります。
チャーリー・パーカーが歌と踊りを奪っていったという言い方があります。器楽的に複雑になると歌えなくなり・踊れなくなるという意味です。身体性を奪ったのでしょうか。
アメリカ黒人の解放運動や世界の多くで起こった政治闘争とリンクされたきたジャズの歴史は色濃く残っています。1964年の東京オリンピックの時にメダルを取ったアメリカ黒人選手が拳を星条旗に向けていたのを覚えています。カール・ルイス以降とは隔世の感があります。
頭でっかちになりがちな現代社会に、身体性こそ「嘘がつけない」領域として意識的にも無意識的にも尊重されてきたのです。ジャズが身体の奥深いところに棲み着いていて心の拠り所にしている人(おやじが多いよう)は多くいます。
身体性を信条にした演奏は多くの人の共感を得ることが出来ます。ともかく動きたいのです。揺らしたいのです。停滞を拒み、化学反応を起こしたいわけです。先へ行きたいのです。ミラーニューロンを使って自分もギリギリの身体性を体験したいのです。そこに嘘がないことは誰もが知っています。共有できる記憶です。
ブラジル・フラメンコ・タンゴなどと比べて、ジャズはその本来の「猥雑さ」ゆえにエレクトリックも取り入れ、コマーシャリズムも取り入れ(取り込まれ)ているという側面も確実にあります。何があっても生き延びてやるのだ、そのためになるべく効果的であろうとし、手段を選ばない「自由」がある、とも言えるでしょう。
商業主義に乗っ取られながらも知恵を絞って生き残りをかけたアメリカのジャズ。フランク・シナトラもジャズでした。それに比して、フランスやドイツではジャズという現象自体が尊敬され敬愛され演奏され研究されているという現実があります。助成金も失業保険(アンテルミッタン)でるし、音大で教えているし、若者が憧れるし、著作権がキチンと尊重され大きな収入になっています。ゲーテインスティテュートはドイツの文化としてジャズを全世界に発信しています。
さて、ジャズの大きな特徴だった身体性に疑問を差し挟む演奏を目指す場合は、よりムズカシイ選択をすることになります。
身体性や大音量は「祝祭」と切り離せない歴史をもちます。シンバルの連打は別空間を作ってくれます。スネアドラムの響き線は人の情動に直接作用し、高揚させます。スネア(響き線)は今で言う「ノイズ」なのです。ヨーロッパではかつて教会が響き線を禁止したということを聞きました。人々を高揚させ反体制デモを起こさせないためということです。日本の三味線の「さわり」だけが特殊なノイズ発生装置ではありません。ヒョウタンに蜘蛛の巣を張ってノイズを出すカクラバ・ロビ、全世界的なのではないでしょうか。
また、お祭りは、人々になくてはならない鬱憤の発散の場です。大声で叫び、倒れるまで身体を動かす。ハレの舞台、カーニバルです。各自の奥深いところにこの祭りの記憶は深く刻まれているでしょう。「衝動」とか「興奮」とかを連想する何かです。
「ジャズ」という言葉から連想するのが、ドラムス、サックス、トランペットであることと無縁ではないはず。
身体性の共感を得ることに頼らない、というと近年の「机を出して、ライトをつけ、コンピューターや器械を操作する」楽器を使わない演奏が 思い起こされます。爆音の演奏ばかりでなく、ごく少ない音・小さな音の演奏も特徴です。あたかも身体から離れることを目指しているようにも見えるし、あるいは、胎児の記憶まで遡りたいのだ、といった感じでしょうか。
それとは別に、アコースティック楽器演奏での「ジャズ」的ものに頼らない方法はいろいろな困難がありますが、やりがいの多い、果てしない作業となります。大音量で隔離しない=日常をそのまま引き継ぐ=→その中での強い集中力と信念と日頃の修練を要求されます。
「自己表現」の限界に気付き、それを越えるために「自己」よりも「他」・「全体」を意識していきます。ジャズの「自己表現」とは別の方法を試行錯誤するわけです。
そして、あたかも、一回りしたように、「身体性」を大事にしなければならないことに気づきます。絶え間なく呼吸をするものとしてのヒト、さまざまなノイズを出し続ける存在としてのヒト、限界だらけの身体の運動、それらを総動員して、欠点とみられるものも利点に転化させる知恵が必要となるのです。
もっと客観的に見ると、Am7とかCdimとかの記号だけの簡易楽譜でいろいろな国の人とその場で共演出来るということ、その瞬間瞬間に多くの情報処理が行われ、その情報処理が個性となって現れる音楽行為としてのジャズはいつも魅力があります。
5月1日のライブでは、「ポジティブ」にジャズをやりたいと思います。インプロヴィゼーションに絡め捕られないように注意します。ブラジル音楽もピナ・バウシュも無防備なほどポジティブです。だからこそ力を持つ。日本国憲法第9条を連想してしまいます。