まとめ:
引用開始
ロマン・ロオランはいっています。・・・・・劇を過信してはいけない。現在、民衆にとって劇が必要であるのは、民衆の生活の中に不安や不満がいまだあるからなのだ。幸福で自由な民衆には、劇の必要はない。なくなる。民衆の生活それ自体が劇になるからだ。この点については、ルソオもまたいっています。・・・・そうなった時、そこでは何が見られるのか。何を見せれば良いのか。何も見せなくても良い。広場の真ん中に、花で飾った1本の杭を立てろ。そしてそこに、民衆を集めろ。そうすれば、そこで祭りが始まる。・・・・・芸術はそれ自体を目的として成り立つものではありません。そこに到達するプロセスとしてのみ成り立つものものです。芸術は死滅するためにあるのです。そこに到達したときにはむろん、到達までの道程でもたえず死滅しなければならぬものです。それが芸術です。
と同時に、そのお祭りとやらはついに来ないものだという前提において、芸術は成り立つのだ・・・と、そうだね?
引用終了
(「美しきものの伝説」宮本研 河出書房新社より)
五番勝負!終了後この文章をずっと思い出していました。この「劇」を「ダンス」に「音楽」に置き換えれば良いわけです。四番勝負終了後、辻康介さんと「うたがあって、おどりがあって、たべものがあって、のみものがあって・・・これ以上人生に何が必要なものがあるのか?」と話しました。ヒトは欲しがりすぎなのです。
この夏にむけてゴーヤーなどの家庭菜園を始めました。何にも無かったベランダにプランターを置き、土を置き、ゴーヤーの苗を植え、補助棒を刺しました。今や、蟻があつまり、シジミチョウが飛び交い、蜂やカメムシが行ったり来たりしています。祭りです。
五番勝負に出演して下さったメンバーにはぼんやりとした一つの共通項がありました。自分が目立ちたい、という傾向はとっっっっても少ない人達ばかりだったのです。他者のでるのを「待つ」ことができます。他者に充分演奏・ダンスをしてもらう場と時間を与えることができるのです。そのチカラが集まると、自分の演奏・自分のダンスを他者にやってもらうことさえ出来る、そんなことを感じた第五回目でした。
ながれ
初回から4回にわたってずっとはじけてきたのですが、ここで一度、落ち着こうと言う意志がどこかにありました。「上」に向かって解放されるのではなく、「下」に向かって解放されるイメージです。内部でのエネルギーが強いほど外の静寂は強いはずだ、そんなイメージでした。そして、その流れにピッタリな出演者でした。わたしだけがせっかちだったのですね。誘いや示唆が多かったかも知れません。スミマセン。
身体を擦る音、さらには空気をさする音、普通は音が発生しないと思われる音、聴衆も誘ってそんな音を楽しみました。南雲さんと斎藤さんが聾なので少しは感覚が一緒になることが出来るのではと想像しました。斎藤さんは何度も歌い手やしゃべるヒトの喉に手をあてます。楽器に耳をつけます。皆より早く到着した南雲さんの上にコントラバスを横たえて、振動を身体全体で浴びて長時間遊びました。どんな感覚なのだろう、と私は想像を膨らませます。聾と言っても様々で、まったく音が無い人もいるし、うるさい音がずっと鳴っているひともいるとのことですので、都合の良い想像は良くありませんが・・・。
みんなで音にならない音を聴いていると南雲さんが声を発しました。私にとってそのインパクトは強いものでした。自分が発する音が聞こえないけれど発したい動機は?開始前の遊びが影響しているのか?などなど思いつつ、突発性難聴で自分の出している音の全ては聞こえない我が身も振り返りつつ・・・
・・・
その後は、流れに身を任せたまま進みましたので、今回ほど覚えていないことはありませんでした。写真を見ても思い出せないのです。竜太郎さんにミュージシャンの指揮をしたら?とサジェスチョンをしたのはやっと思い出しました。ハイ。写真を撮りながらのパフォーマンスをしてくれた斎藤さんは、ムーミン谷に住んでいそうな感じでした。同じく初出場のかみむら泰一さんも目をくりくりさせながら楽しんでいるようで良かった良かった。(11月15日、私と初デュオがエアジンで有り升。)
そんなこんなで終わりの無い旅が続いています。来週は一応、公開リハーサルが終わります。旅の終わりは旅の始まりです。思えば「いずるば」は花を飾った杭を立てたのですね。毎週いろいろなヒトが集まって、祭りが始まっています。祭りが無くても、生活それ自体がダンスになり、音楽になるその日まで。











