音楽が問われる日々

音楽が問われる日々が続いています。出来具合がどうの、ということではなく、音楽そのものの役割・存在意義が問われていました。

 

そのきっかけは、いつも「生と死」。「音楽への憎しみ」を書いたパスカル・キニャール原作「めぐり逢う朝」は今昔物語「蝉丸」の章から換骨奪胎した名作です。ここでも音楽と生と死が最大のテーマでした。私事ですが、先日母親が急逝し、その翌日がブラジル音楽でした。果たしてこの環境でブラジル音楽ができるのか、と心穏やかではありませんでしたが、日頃感じることの無い領域を感じながら演奏することが出来ました。

 

ポピュラー音楽の本当の基盤は人々の苦しみ・哀しみであることを痛感。ブラジル音楽然り、ジャズもフラメンコも、シャンソンも、民謡もそうなのでしょう。死の悲しみだけではなく、生きていることの哀しみを「歌」に託すのがポピュラー音楽、そこから愛の歌がたくさん生まれるのです。逆では無い。

 

ヴィニシウス・ジ・モラエスの詞・トムジョビンの曲代表作「フェリシダージ」も演奏しました。冒頭の部分「哀しみは終わらない、幸せは終わるのに」という部分を聴衆も一緒に大声で歌いました。ポピュラー音楽の元々のチカラを感じた次第です。

 

翌日の通夜・本日の告別式では、乾千恵作詞・私作曲のうたをさとうじゅんこ・喜多直毅さんと演奏しました。千恵さんのこれらのコトバは、知人友人の死がきっかけでできたものが多いので、式にはまさにピッタリでした。前日のブラジル音楽と同じメンバーで演奏したこともおおきな体験でした。思えば、このトリオでの最初の出会いが結婚式の音楽だったのです。大事な共通体験を音楽と共に培っています。

 

私は、お葬式での演奏も何回か経験があり、間もなく亡くなる人のために病室で演奏したことも何回もあります。音楽は本来、シャーマニックな儀式、アニミズムの世界で機能してきたわけで、本来のパブリック・サービスなのでしょう。個人の表現は後でとぼとぼと付いてくればいいのです。

さあ、また明日から新しい日々が始まります。

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