「うたをさがして」と即興演奏はどうちがうの?

omote1203

 

普段やっている即興演奏と今回のオペリータ「うたをさがして」の日本語の歌作りはどう関係するの?

 

と言う質問の答えをつらつら思い巡らせています。

「私にとって全く同じ事なんすよ~」と言って煙に巻くのは簡単ですが、もっとちゃんと言語化したいと言う気持ちがあります。うたに対する憧れやうたの重要性・必要性・身体性について言うことはいくらでも出来ますが、もっと違う切り口はないものか?即興演奏の時に「なんでそんなフツーじゃない音ばっかりだすの?」という質問にどう答えて良いか、という時とちょっと似ています。

 

それをさがすためにツアーをやるんだよ~ん、と言ってお茶を濁す前に少し考えて見ます。

 

音楽は演奏されている時間よりも、それ以外の時間が大事なのではないか、というわかりにくい考え方に囚われたりもします。そんなトピックの時よく引用されるのがエリック・ドルフィのアルバム「last date 」での ” when you hear music, after it’s over, it’s gone in the air, you can never capture it again.”ですね。遺作のしかも最後のトラックに本人がしゃべっているのでなおさら印象は強いです。

 

ノイジーな音をこれでもかこれでもかと演奏して、終わった後、沈黙の深さが増すように思います。そのためのノイズなのか?と思うわけです。今の気持ちや時代をえぐるにはベルカントやビブラートまみれの音ではないのは多くの人が感覚的に理解出来るでしょう。

 

終演後、その演奏が何かを「忘れさせてくれる」ものであるか何かを「思い出させてくれる」ものであるのかの差は大きい。全く逆とも言えます。音質で言うと、エンジンやモーターの回転のように均一なくり返しに起因するノイズは、大音量になればなるほど「何かを忘れさせてくれ」、自然素材の中にもともと入っているノイズを引き出すと(ガット弦の音など)、どんな小さな音量であっても「何かをおもいださせてくれる」気がします。私は何と言っても後者です。

 

素晴らしい演奏を聴いていて時の流れが止まることがあります。音楽に関する最高の瞬間・体験の1つでしょう。それは、時間芸術と言われる音楽を逸脱していて、演奏されている時間の流れ「以外」のものとも言えます。メシアンの「時の終わりのカルテット」リストの「超絶技巧」も本来そういう意味で使われたと聞きます。結局、演奏している時間以外の時間の方が大事なのではないか、とさえ思ってしまいます。

 

でもそれはライブで演奏しているからこそ起こることですから、演奏を否定しているわけでは無いですよ。

 

ついこの間、ALSの友人のためのホームコンサートでいくつもの賛美歌を演奏しました。「これはヤバイ、思わず入信してしまいそうだよ、」なんて冗談を言わざるを得ないほどの影響力でした。うたの力であると同時にその音楽が身体に入ってしまう。それが先日の即興演奏の中でふいに顔を出して来たのです。自分ではどうすることもできません。

 

大きなテーマですので、とうてい締めくくれません。

少し引用してあと1時間半で来年を迎えましょう。

 

荘子「暗闇のなかに暁を視、音無きところに楽の和を聴き取る」

孔子「無声の楽(音を発しない楽)こそ究極の楽である」

沢井一恵「無絃琴」(内田百閒)

海童道「音楽家達から楽器を取り上げるてみると、無論、たちまちお手上げ」

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