情宣の旅

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東奔西走

 

私にとっては朝一番7:30のバスに乗って津田沼~東京駅~新神戸~岡山~東京~津田沼、帰宅は10:30。

 

何で?って決まっとります、オペリータ「うたをさがして」の情宣です。新聞2社、ラジオ1局でした。前売りチケット10名分の予算以上の仕事をせねば成りません。荷が重いです。私をとりまく状況に詳しい記者さんにも、何も知らないアナウンサーさんにも、嘘偽りなく心のままを話しました。普段話すことが極端に少ない私としては3時間自分の話をするのは大変です。ある種興奮状態。新幹線の中で8月のポレポレ坐ライブ「うたをさがして序章2」を3回観ました。反省点、発見点、てんこ盛りでした。

 取材や録音が進につれて、皆さんが共感してくださるのを感じるのは大変嬉しいことでした。

ともかくも自分の書いたメロディにコトバが乗ると別の人生(音生)を生き始めることがよくわかります。白川静さん説の文字に込められた「呪」とは違う次元で、コトバは音に乗るのです。音になって空中を移動したいのです。言霊となって風に乗ってゆらゆら流れます。

 

 

 

楽器の基礎をやっている人によくこう言います「自分が出した音はすべて自分に返ってくる」から素材は厳選すべきです。つまらない音楽の素材を「根性」こめて何回も何回も音にだしていると、自分自身がつまらない音楽に染まっていきます。来たるべき日に好きな曲を弾く段階で、身体と耳がすでに汚れきってしまっていたらどうでしょう?素晴らしい曲も汚れた身体のレベルにしかならないでしょう。

 

 

 

コトバを発するとは「自分の口を借りてコトバがでていくのを聴くことだ」という話にミョーに納得したことがあります。あ~私はこんな事を考えていたんだ!とかね。楽器で音を出すのも自分の身体と楽器を借りて音が出ていくのを聴くことなのでしょう。出すことではない。

 

 

 

コトバが音に乗っている、ということは相乗効果を生みます。私は専門作曲家ではないので、音にコトバが上手く乗っていないところがさまざまあります。が、そういうところも逆におもしろみがあったりします。入りきらない美、しどけない美でしょうか。桑田佳祐さんや高田渡さんが好例ですね。上手く日本語が音に乗っていてしかも面白いというのはなかなかなく、野口雨情・中山晋平、青島幸男・萩原哲晶コンビのレベルがすばらしい。

 

 

 

もちろん私はそこまで行っていませんが、できるだけ努めました。そして今、私の手を離れた歌たちを他人の曲のように鑑賞することも、共感することも出来ます。なにしろ天才がバイオリンを弾き、菩薩が歌うのだから悪いわけありません。

 

 

 

昨日の3つの新聞取材・ラジオ出演で3時間も自分の口から出てくる自分のコトバを聴くと、私にとってこのオペリータがどれ程大事なものかよく分かりました。そして今の状況にも必要なものであるかも推察できました。

 

 

 

今回、好きなうたがたくさんあります。みんなで分かち合い、歌えるとサイコーです。1月のうたの旅、ぜひ、ご参加下さい。

 

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