(↑は小林裕児作 pagan hymn )
時々、ビックリすることを言う友人ザイ・クーニンとの話。子供の頃、何になりたかったか?というトピックになり、「シュバイツアーの本を読んで影響され医者になりたかったんだよ」と言うと「なんだ、じゃ今と同じじゃない?」。彼のようなシャーマンの家系の発想で言うと医者と音楽家は一緒なのです。なるほど。現代ニッポンの常識だと医者になるのはエリートで、ミュージシャンになるのはドロップアウト組と相場が決まっています。
人間誰しも死ぬのですから同じと言えば同じですが、死の床についている方のために演奏したことがあります(3回)。お葬式やお別れの会で演奏したことは何回もありますし、共演した直後(2日後)に亡くなった方もいらっしゃいます。私との共演が最後のものになった方も複数いらっしゃいます。その度に音楽本来の仕事という感覚がありました。私がお見舞いに行った直後に亡くなった方もお二人、まるで私を待っていたのかという思いに囚われました。
そんな時、必要なのは「分かち合う歌と踊り」。世界最高のインプロをやっても、超難曲を見事に弾きこなしても何にもならない。CDやDVDではなおさらダメ。小泉文夫さん言うところの「骨の髄からでてくる音楽」歌・踊りでしょう。その小泉さんが20世紀の三大音楽家としてジョン・ケージと海童道とピート・シーガーを挙げています。彼らしいですね。発想の大転換を示唆したケージ、「音楽」から離れ音そのものへ向かう思想の海童道に対し、ピート・シーガーが分かち合う歌の代表なのでしょう。
ピアソラにはタンゴがあり、パコにはフラメンコがありました。ブレルにはシャンソンがあり、ユパンキにはフォルクローレがありました。皆、本流であり、異端でありました。果たして日本人には何があるのでしょう?沢井一恵には邦楽・箏があり、久田舜一郎には能・小鼓があります。齋藤徹には何もありません。
あきらめず「うたをさがして」右往左往するしかないようです。1月のオペリータ公演ですぐに何かみつかるとは思いませんが、一歩一歩です。