九つ井 壁画完成イベント 終了しました。

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そりゃなんたって自分が出来ることで人が喜んでいるをみるのは楽しいし嬉しい。そんなライブでした。小林裕児さん作壁画「泉」完成イヴェント@九つ井玉川店。三年前、横濱店で巨大絵画を納入記念で演奏した内田慈(うちだちか 女優・脚本)+喜多直毅(バイオリン)+徹(ベース・作曲)を慈さんが改作。

 

この店は、玉川高島屋の地下一階+二階部分をぶち抜いた巨大な異空間に古民家を移した蕎麦の名店です。地下二階部の入り口に降りるまでの壁に、裕児さんの壁画を描いて欲しいという依頼だったそうです。真夏にヘルメットをかぶり工事用の足場という条件の中で、木の葉1枚1枚描くのに相当苦労されたということですが、出来上がった作品は猫、フクロウ、山羊、鳥、バイオリニストが生き生きと描かれていて楽しい楽しい。http://yujikobayashites.sub.jp/wp/?p=1363 に製作過程があります。

 

裕児さんは、絵を描くために生まれてきた天性の画家なのだとつくづく思います。そんな裕児さん関連の仕事は余計なことが無く、どれもたいへん楽しい。そして楽しさを醸し出すための作業はすべからく楽しいのです。作曲するのも苦労したことがありません。こういうオーラの近くにいることは幸せです。もちろんクオリティが厳しく問われていることを忘れてはイケマセンが、そういう心配も忘れて仕事が出来るのは幸せです。

 

なぜだか、直毅さんの好きな啄木の文章を思い出しました。今日はイタズラして、彼が「詩」と書いた所を「音楽」に換えて抜き出してみます。沁みるな~。

 

 

「食うべき音楽」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。謂う心は、両足を地面に喰っつけていて歌う音楽ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う音楽ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な音楽ということである。――こういうことは音楽を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった音楽を、必要な物の一つにするゆえんである。音楽の存在の理由を肯定するただ一つの途である。音楽はいわゆる音楽であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。――まとまりがあってはならぬ。(まとまりのある音楽すなわち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。音楽とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末もしくは年末決算との関係である。)そうして音楽人は、けっして牧師が説教の材料を集め、淫売婦がある種の男を探すがごとくに、何らかの成心をもっていてはいけない。

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粗雑ないい方ながら、以上で私のいわんとするところはほぼ解ることと思う。――いや、も一ついい残したことがある。それは、我々の要求する音楽は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われた音楽でなければならぬということである。

 

また諸君は、音楽を音楽として新らしいものにしようということに熱心なるあまり、自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば、諸君のかつて排斥したところの音楽人の堕落をふたたび繰返さんとしつつあるようなことはないか。

 

 

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