ミュンヘン行きの汽車を待ちながら

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West and East never meets. とよく言われたものです。「西洋と東洋は決して出会わない」。セバスチャンと私のデュオを観て「西洋と東洋云々」と言う感想が数多く聞かれました。資本主義が行き渡り、行き詰まり、ネットが常に駆け回り、監視され、グローバリズムが言われる今どきに何が「西洋だ、東洋だ」という意見もごもっともです。それよりは「南と北」の問題の方が深刻だ、という意見もごもっともです。

 

こうやって西洋の(西欧の)文化の中を東洋人が一人で混じって生活をし演奏をしていると、やはり、どうしても多くの違いを感じます。同じ楽器を演奏し、同じ教則本で楽器を習い、同じような音楽を聴いてきていて、同じような音楽を演奏していても、さらに違いが残ります。それは個人の違いかもしれません。まあ、この議論は結論が出ないでしょう。「違いを楽しみましょう」だけではもう満足できません。

 

インプロビゼーションを通せば、出会う部分が増えるのでは、という仮説もありえます。インプロビゼーションが個人の深い「記憶」を引き出す方法であるならば、深い記憶の層は西も東も共有している可能性があるからです。

 

ダウン症の人の顔は西洋でも東洋でも似ています。西洋・東洋という違いがヒトの中で発露する以前の記憶なのではないかと考えることができるのではないでしょうか?もっともっと遡ってみれば、どんどん共有する記憶が増えていくハズです。

 

また、東洋人が西洋音楽を鑑賞でき、西洋人が東洋音楽を鑑賞できることだけ考えても共有部分はある、と言えるでしょう。時々東洋人の中から西洋音楽の天才的演奏家が現れることは周知の事実でしょう。

 

セバスチャンとのデュオに話を戻しましょう。二人で所謂ヴァーチュオシティを駆使した丁々発止の演奏を繰り広げた後、ふと出てくるもの、これに注目したいと思います。

 

丁々発止の演奏は、有無を言わさぬスピードを伴って、今まで培ったすべての情報と工夫と技術と身体性を駆使し、ノイズを多く含むことが観察できます。その音達は、演奏が終わった後の沈黙を深くさせます。そのための演奏とさえ言ってしまうことができるかも知れません。

 

また、「うた」や「ダンス」がうまれる直前に至ることもしばしばあります。でも私たちはなかなかOKを出しません。私の方がOKを出しやすいというのは事実でした。今まで共演した西洋のインプロバイザーはなかなかOKを出しませんね。どちらも耽溺に近づいているのかも知れません。

 

今言えるのは、続けることが大事ということです。例えば、「伝統」に生きている人達との共演、他のジャンルの人達との共演、同じ楽器の人達との共演、ハンディを持っている人達との共演、なるべく遠い人達との共演などを続けることで多く学べるのではないかと思います。それは一方通行では無いはずです。

 

 

 

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