セバスチャン・グラム

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雑感

 

セバスチャン・グラム、今までにいるようでいなかった演奏家と言って良いでしょう。ジャズとインプロ、という背反するように見えるジャンルを自在に行き来しています。それがどんなに矛盾をはらんでいるかはよく取りざたされていました。

 

ジャズはお金稼ぎ、インプロこそ自分の道、という人もいましたし、インプロはジャズの延長でとらえる人もいましたし、ジャズのまっとうな進化と捉える人もいました。一方、双方で「あいつらとは別だよ」という話は多く見聞きします。フリージャズとインプロの違いはだんだんと日本でも話題になるようになってきました。しかし、日本に根強く存在する「情念の発露」のような表現は、ちょっとやそっとで無くなるようなものではないようです。

 

レ・クアン・ニンさんは現代音楽とインプロを自在に行き来していますが、それを問題にする人はいません。民族系の音楽をやりながらインプロをする人もよく見かけます。しかしジャズとインプロの双方に尊敬され、自分でも必要としている人、近くて遠いものを自在に行き来するセバスチャンは今後の一つの目印となるかも知れません。彼が、ジャズを始めた頃、アメリカ黒人でもないのに、その音楽をやるのは抵抗があったと言います。

 

ヨーロッパでのインプロの歴史では教会オルガンが大事な位置をしめていますし、音大でのインプロ科は大学院を対象としています。アメリカのミルスカレッジでもそうでした。そこではアンソニー・ブラックストンやフレッド・フリスが教授でした。「教えることができる」ものとしてのインプロが存在する実例でしょう。

 

インプロの現場で、個人性を追求する果てに匿名性に至る流れは自然に見えます。ジャズは「1音聴いたら奏者がわかる」のが高い価値基準とされてきました。「ジャズに名曲無し、あるのは名演奏のみ」というキャッチコピーで始まる大橋巨泉のラジオ番組がありましたね。あくまで個人の表現です。そして個人性を高めることで、ギャラも高くなり、プロフェッショナルとしての尊敬も集まります。この人にしかできないこと、それが尊敬を集めることは自然なことでしょう。そしてその音が特異になるにつれ、作曲とも離れていってインプロになっていく道筋もあります。あるいは、アンサンブルの中で演奏することで特異性と共有性の綱渡りをしている人もいます。

 

一方、孤独に苛まれたり、精神を病んだり、アルコールやドラッグに行く演奏家も多くあります。逆にそのことで伝説性が高まり、より求められもしました。

 

匿名性に魅力を感じる人達、あるいは、全体の中の部分になることに意義を見いだす人達は、ほんのわずかな選択の違いによって「一人の極北」へ行くことを逃れた人達かもしれません。匿名性は、再び、作曲やアンサンブルや歌にも道を開きます。

 

この世で生きている限り、幾多の矛盾をはらむことは自然なことです。これからのセバスチャンの活動に注目しましょう。

 

 

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