3日目、多くの聴衆の興味は沢井さんに集中しているようです。「沢井一恵」的なものを世の中が求めているのかもしれない、とボンヤリ思いました。一恵さんと共演してもう20年以上。その間、フランス・ベルギー・スイス・韓国・タイ・ラオス・アメリカ(ハワイ・ニューヨーク・ワシントン)などなど忘れがたき旅をご一緒しました。おーー!!とか、ありゃりゃ、とか、うーむとか、えっ~とか、いろいろな面を見てきました。
クセニティスというギリシャ語は「どこにいてもよそもの」という意味だそうです。一恵さんは、ある意味クセニティスでしょう。何かとてつもなく大きなモノ(ノケ)が一恵さんという身体を借りて演奏させているからです。そのモノノケは、世間的な音楽などには目もくれません。あの小さな身体にはまことに酷です。(舞台では巨人に見えますが、ご本人は小さな方です。)ただし、たま~にモノノケと一恵さんの身体がフィットすることがあり、かならず大変なことが起こります。共演者も聴衆も置いてきぼり、呆然として単なる立会人になるのです。今・この時を共有できてよかったとひたすら思い、名誉さえ感じることもあります。私は何回か体験しました。
ご家族の病や不幸にも「良い人間から先なのよ」とおっしゃる場面にも何回か遭遇しました。このモノノケの欲は計り知れなく大きく、フツーの満足などありえないため「なんで、それほどまでして?」と思うこともありました。ヤツの仕業なのです。あのサングラスは、傷つきやすく涙もろい眼を見せまいとするためです。
ちょうど今、西村朗作曲の「かむなぎ」(17絃とパーカッションのデュオ)のリハーサル中ですが、8種のパーカッションのパートをコントラバスの私に「やってみて!」というのもどこから発想したのでしょう。神を降ろす儀式の音楽。まさにヤツが一恵さんにやらせたがっているものです。ここでないどこか、これでないどれか、いまのわたしでないだれか、を求めるしかない陰謀はいつ終わるのでしょうか?
この日も、三者それぞれの音楽を演奏していました。三者の音楽力(そんな言葉あったっけ?)の総和は大変大きく会場全体を埋め尽くしていました。その中で徐々に高揚していく聴衆。良いコンサートでした。ツアー最終日にふさわしくアンコールはバールのソロ。バールの親しみやすさからか、音楽を越えた、会話のようでした。帰り際に悠治さんがバールさんに「あなたの演奏はプッシュしない、エレガントなもので良かった。」と言っていたのが印象的でした。
バールさんの親しみやすさ、とは何でしょうか?彼のCDはインプロの中ではともかくよく売れる、と言われています。「音が美しい」とよく言われますし、その感想が一番多かったように思います。
それは「歴史の選択」に従っているから、と言えるかもしれません。ガット弦からスティール弦に替えるということは世の中の趨勢・選択でした。ハッキリした大きな音(余計な倍音がない)が求められてくる歴史の過程でそうなったのです。そこに躊躇はありません。コントラバス用の柔らかい松脂を使うのも、大きな低音を出すためには必要です。オーケストラのコンバスセクションでは特に当たり前なのです。
高い音の楽器がメロディをとり、低い音の楽器が伴奏する、これも歴史の選択です。しらずしらずに世の中が、人々の耳が、意識が、そうなっているのです。コントラバスを褒める時に「チェロのように、ヴァイオリンのように歌うコントラバス」なんて言いますよね。カラヤン・ベルリンフィルのコンバスセクションが細いソロ弦を張ったのも同様で、ヴィオール属からヴァイオリン属に編入していく過程だったのでしょう。一つの大きなヴァイオリン属の音響の中の低域を担当するわけです。「グローバリゼーション」のようです。
一方、私はスティール弦からガット弦に替え、柔らかい松脂から固く粒子の細かい松脂に替えました。その理由はただ一つ、私の求める「音質」のためです。微妙な音質のためにさまざまなことを犠牲にしました。いや、犠牲などとは思っていません。ただ、知らないうちに歴史の選択に逆行していたわけです。ヴァイオリン属へ編入せず、ヴィオール属のまま、いや、さらに遡って民族楽器へ行く指向なのです。
バールさんは演奏の中でよく5度の音程を鳴らしたり、パルスのような繰り返しのリズムを使います。5度は特にコンバスで良く(美しく)響く音程です。しかし、調性感を規定してしまいかねないので、インプロでは避ける傾向にあります。パルスにしても同じ。それは、謂わば「旗を立てる」ことです。「さあ、ここですよ!」と調性やリズムの旗を立てる、そして共演者や聴衆が追いかけやすく「音楽」の場を作りやすくしているわけです。そしてその旗のもとに集まった人達に「残念ながら、ここじゃありませんでした。」とドンドン移動させていく。
人の個性の違いでしょうか・・・・。そう言ってしまうと元も子もないので、言い方を変えてみます。「肯定」するために「否定」するのか、「否定」するために「肯定」するのかの違い。否定するために肯定していくインプロと、肯定するために否定するインプロの違い、すなわち、とりあえずある音楽を作っていき、それをいろいろな方法で否定していくのと、より大きな音楽が欲しいため、安易に音楽にしたくない、その違いと言えるかもしれません。彼が育った時代の若さ・豊かさと私の時代の老い・貧しさの違いがうっすら見えてくるようです。
さてさてツアーは無事終了しました。よかったよかったよかった。ありがとうございましたありがとうございましたありがとうございました。