ザイを通して見る

撮影:南谷洋策 衣装:黒田敬子 @川崎市岡本太郎美術館

 

ザイ・クーニンとはもう15年以上のつき合いになります。シンガポールで好きな企画ができる、というチャンスを得たとき、当時の興味を存分に注ぎ込みました。フランスからミッシェル・ドネダとアラン・ジュールを、韓国からチョンチュルギとキムジョンヒを、日本から沢井一恵と山崎広太を呼びました。ヨーロッパのインプロビゼーションと韓国のシャーマンミュージック、日本の伝統音楽をぶつけようという企画です。将来もつづく長い長い道のりの初期の一歩でした。

 

せっかくシンガポールにいるのだから、現地のアーティストも参加して欲しいという要求にイフェンディさんとザイさんが推薦されて参加することになりました。二人ともマレー系。サブステーションという劇場が会場。なんとそのサブステーションの楽屋に住んでいたのがザイでした。動物のような目つきと身のこなしに一恵さんと二人で大喜び。何かある。確かに。

 

それ以後、いろいろと楽しい時間を過ごしました。紹介した岸田理生さん・元藤燁子さん(おふたりとも亡くなりました)とも大いにザイを気に入り、理生さんはザイのための脚本を書き、元藤さんもなにかにつけ呼んでいました。ザイも元藤さん・工藤丈輝をシンガポールに呼んで土方巽のヴィデオ上映などをしていました。

 

また、モリジュンこと森田純一さんも講師として日本とシンガポールの音楽交流のレクチャーをしたり、私もソロで2回、井野さんとデュオでも行きました。日本ではミッシェル・ドネダ、チョンチュルギとのツアーについてきて参加、ジャバラのCD「ペイガン・ヒム」に録音も残っています。一時日本人女性と結婚し愛娘ルミも生まれました。結婚の時は池袋のイスラム教会で、私と岸田理生さんが証人となりました。法律だけでなくイスラムの承認が必要なのです。その証文をもってシンガポールのザイの家族にも会いに行きました。

 

マレーシャーマンはシンガポールでいろいろと迫害を受けます。演奏家のお父さん、ダンサーのお母さん、とてもすばらしい人格です。日本語で思い出すのは「バカヤロ-」だよと言って、言いながら殴る真似をしてくれました。つらいですがアジアを旅していると必ずと言って良いほど体験します。政府から音楽や踊りの禁止令がドンドンだされ、今や結婚式の音楽のみが許されている状態だそうです。

 

ザイを通して見ると世の中がクッキリ見えてきます。

 

井野さんとのデュオの会場はオン・ケンセン(演出家)の劇団の小屋(ブラックボックス)だったのですが、折からの選挙戦で、広場の中に有る小屋はうるさくて演奏はとてもむずかしい。それもガマンするしかありませんでした。「これがシンガポールのマレー人の立場だよ」と笑っていました。私が「ハリマオ」の実話を話すととても興味を持ったそうです。この前アーヘンで共演した南アのダンサージャッキー・ジョブはマレーの血が入っているのでエアジンで共演を企画、気に入ったザイはジャッキーの公演を準備、大成功したそうです。

 

一昨年、日本でビッグネームの演奏家と演奏した時に「日本デビュー」というコピーがあちこちにあったということでザイが驚いていました。私の仲間との15年は何だったのでしょう。無視ですか。しらなかった?そうですか・・・福岡アジア美術館のオープニングもやったのですよ。岡本太郎美術館で土方巽展の時もスペシャルイヴェントをしたのですよ。ちょうど小松亮太と録音したCDが「デビュー前」の作品と言われているのと同じですね。

 

美術家として特に海外で評価が高いそうです。(オーストラリアではアンディ・ウオーホール、ジャコメッティ、ザイ・クーニン展が開かれたり、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館が彼をシンガポール代表として選出、来春の展示のために作品はすべて買い取られるそうです)しかし、シンガポールではかえって目障り。エスプラネードというシンガポール有数の劇場で彼の個展が催されたときも、彼にはほとんど知らされず、自分は同じ劇場で清掃のバイトをしていたそうです。

 

今回はともかく福島に行きたいということで、私と風の器の公演を昼夜とも観た翌日福島へ行きました。ビッグネームの参加する大規模な音楽イヴェントをやっていて、そこに参加することになっていました。(何回も日本に来たけど知らない人が成田に迎えに来ていたのは初めてだよ、驚いた、と言っていました。)主催者からの謝礼は辞退し「決して行くな」と言われていた飯館村や南相馬や原発の近くまで行ったそうです。成仏していないスピリットをたくさん見てしまった、これをほっておくと大変なことになる、とシャーマンらしく心底心配していました。

 

さて、帰国の日、習志野宅で3時間ほど時間があったので近所の温泉に行きました。ガラガラの平日昼間、10分くらい源泉掛け流しを楽しんでいたら、スタッフがずかずか来て、「入れ墨のかたは出て行ってください」。彼は昨年一年間シンガポールがトコトンいやになってタイの山にこもっていました。瞑想するザイが近所の僧侶たちに評判になって、僧侶の代表が対面、話し合ってみるとザイに感心してしまい、「あなたになにかしたいのです、なんでもおっしゃってください」「なにもいりませんよ」「ではあなたの印をデザインさせてください」といって僧侶がデザインした「聖なる」タトゥーだったのです。直径8㎝くらいの円状のもの2つ。

 

ヤクザに間違えられた、と苦し紛れのジョークを言いましたが、あまりのレベルの低さに話もできませんでした。「どうしてもというなら上からテープをはってください」と。これが日本の実情なのでしょう。ザイはこういう差別は慣れたものでしたが、タトゥーゆえに出て行かなければならないことは初めてだそうです。私は哀しくなりました。どこからともなくすべてが監視され、どうでもいいことをあげつらい、ちくり、ためにする。ことの重要さの優先順位など関係なく、自分では考えず、マニュアル通り、命令通り、事なかれ主義。南洋、アイヌ、台湾などに拡がるタトゥー文化に対する知識も尊敬もクソもありゃしない。

 

先月フランクフルト空港で身体X線チェックの長い列で、私の後ろにいたブロンドの美女が係官と目配せをして「レディファースト」と言ってあっと言う間に先に入っていきました。小鼓の久田舜一郎さんとミッシェル・ドネダとフランスツアーをしていたとき、アルザス地方であからさまなレストラン入店拒否もありました。ボゴタ(コロンビア)からヒューストン(ジョージ・ブッシュ空港!)への飛行機では、最後列が全員アジア人、リクライニングしない非常用座席でした。ぼやぼやしていられませんが、差別する方には決してなりますまい。

 

後列左から広太・アラン・ミッシェル・テツ・ザイ・チュルギ

前列 ジョンヒ・一恵   シンガポール サブステーションにて

 

 

 

 

 

 

 

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