即興に関するよしなしごと(14)

 ずいぶん前のこと「アイコンとしての身体」(アスベスト館・大野一雄校長)で「音と身体」というワークショップを担当したことがありました。今でもワークショップは慣れないのに、その頃はなおさら。ともかく懸命にやった覚えがあります。

例えば:

背骨と口の方向が直角なのは人間だけ、ということなので、真っ直ぐにするために上を向いてもらいます。そして「おーい、おーい」と何かを呼んでもらいました。普通におーいと言うのと,全く違う感覚が訪れます。ほとんどの人が、まるで自分の内部(遠い記憶)に向かって何かを呼んでいるようだった、と感想を言いました。私もやる度にそう思います。

そういえば、小鼓の久田舜一郎さんの最高潮のかけ声は、自然に上に向かって吠えている感じです。おおかみも遠吠えも、月に吠える詩人も上向きでしょう。

音楽は「呼ぶ」動作、踊りは「探す」動作という野口三千三さんの話が好きです。野口さんがいた頃の東京芸大は、三木成夫さんがいて、小泉文夫さんがいて、なかなかすばらしいですね。三人とも、世の中の流れに「ちょっと待ってよ、そうじゃないんじゃない?もっと自分の中に聞いてみようよ」と言う感じです。そのユニークな視点をもとに活動していたと言う点で共通していたように思います。この三者に学ぶことは多いです。

野口さんは体育の先生でしたが、ダンスは、大野一雄さんの弟弟子だったり、舞台にも興味を持っていて、ユニークな視点はいつも刺激的です。そして、こんなことまで言っています。耳が痛いというか、励まされますね。

「自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいが、それは二の次のことだ。他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は、自らを損なうだけでなく、観客を侮辱し、愚弄する以外のなにものでもない。自分勝手、ひとり合点、何がなんだかさっぱりわからない。・・・・・・大いに結構。ただ一つの願い!!それは舞台に関係する一人一人のすべてが、ほんとうに自分を大切にしてほしいということだ。ほんとうに自分がやりたいことを、どうしてもこうしてもやりたいのだというやり方を、とことんつきつめて、丸ごと全体の人間としてぶっつかってほしいということだ。この生々しい強烈ないのちの花火だけが、観客の主体的創造活動を触発する唯一のエネルギーなのだ」(「野口体操・身体に貞く」柏樹社)

おーい、と呼ぶ声で思い出したのが春日大社・若宮宮の声の出し方「警蹕(けいひつ)」です。歌詞はなく、ただオーと言う音で、決まり事は、低いオーが小さい音、だんだん高くなるにつれて大きい音になる、高いところでは、西洋でいうハーモニーは気にせず皆の音をそのまま響かせあう。それがずっと続くわけです。いわゆる西洋ハーモニーでない響きは、現代音楽での「クラスター」になってとても現代的に響くのです。

ワークショップを頼まれた時、何回か試しました。面白かったのが、フランスでやったときは、みんなが気持ちよくハモってしまう。どんなに注意しても自然に「美しく」ハモってしまうことでした。日本ではそういうことはありませんね。上を向いて声を出し続けて円を描いて歩いてもらうと、時々、もの凄い空間が現出しました。そういう時、参加者は大変満足し、取り憑かれたようにみな遠い目をしています。何かを思い出しているようです。

反応するものが身体の中にあることを知るだけで大いなる発見でしょう。また、昔の人々の音に対する敏感な感覚に脱帽します。私が時々つかう竹の笛は、あんま笛で、男笛、女笛があって、流しのあんまさんが男か女かすぐ分かるようになっていたそうです。無言唄(むごんばい)という聲明の1種は、声を出さない聲明。以前書いた、荘子や孔子の音楽論をみると、ジョン・ケージが4分33秒をやるずっとずっと前からアジア・日本の伝統にあるわけですね。

即興は、「知らない」ものを「思い出す」方向に作用するときに、とても素晴らしいと思います。

写真は旭川モケラモケラでのワークショップで警蹕をやっているところ。参加者はかたるべプラスの友達です。

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