即興に関するよしなしごと(11)

「音」とは、本来、聴くもので、出すものではなかった。

白川静さんの「常用字解」(平凡社)によると、この字は「立つ」に「日」ではなくて、「言」に「一」を足したもの。すなわち音は言葉を意味した、それも神の言葉。(以前引用したアーノンクールの本の副題が「言語としての音楽」でした。)「言」とは「入れ墨用の針」に「さい(神に誓い祈る祝詞【のりと】を入れておく器)」。すなわち、祈りに神が反応するときは、夜中に「さい」の中に音をたててくださる。ウソ偽りを言うと、入れ墨の刑を与えられます。神が反応するときが「おとづれ【訪れ】」。「暗い」も「闇」も「音」が入っているわけです。本来聴き取りにくいものが音。(「さい」は白川さんの中心になる概念の1つ、↑中央の字です。)

願いを込めて、夜、じっくり「待つ」もの、それが音。自己表現の道具とは正反対ですね。「聴くことは、待つこと、待つことは信じること」と思っていたことを裏付けてくれるようで、合点がいきました。「音」に「心」をつけて「意」。「自ら」の「心」が「息」。なるほどです。

(ここでは関係ないですけれど、生涯を研究に打ち込んだ白川さんは、日本はアメリカの属国である、とはっきり言い切っていました。沖縄に関する密約が明らかになり、「テロとの戦い」が欺瞞に満ちていることが明らかになった今でさえ、それを言うことを憚る雰囲気はがあります。また、白川さんの願いは、東・南アジアの漢字文化圏を復活・構築することでした。)

律令制度の「律」は「音律」のことだったそうです。中国で国が興るとまず政府がやったことが「音律」を決定することだったそうなのです。基本となる音の高さを決める、その音を出す笛の長さを決めることでした。なぜそれほど大事だったのかというと、音の高さの尺度が、全ての度量衡の基本になったということです。税金も音で決めていたと言うことなのです。

この2つの例で分かるように、音は本当に大事なものだったのです。

大部屋に入院していた時、足音、息の音、衣擦れの音で、入院患者の誰かが分かりました。人は音なのだと思ったものです。同じ楽器をいろいろな人が弾くと、全く違う音が出ます。音によって人がわかるという例でしょう。韓国語で音のことを「ソリ」と言います。「そりが合わない」というのは、刀と鞘の反り具合が合わないことでしょうが、あの人とは「音」が合わない、と勝手に解釈しても面白いです。

網走の養護学校で演奏した時、10年以上、何にも反応しなかった人が、ベースの音に反応して動きました。先生・スタッフがビックリしたのなんの。私の演奏にそういう力があったのではなく単なるきっかけや偶然だったのでしょう。しかし、音には、そういうきっかけになるチカラ・要素がある、ということを改めて感じ入った次第でした。

心にもない音楽を演奏し続けると、音から復讐され、身体を壊したり、心を病んだりします。音楽性の無い教則本(コントラバスの教則本にありがちです)を根性いれてやっていると、音楽性のない演奏家が出来上がってしまいます。おかしな音楽ばかり聴いていると、おかしな人間になります。

人間の身体・精神より、音のほうが断然強いのです。自分で出そうと思ったりせず、従うというスタンスの方が身のためです。

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