即興に関するよしなしごと(5)

演奏家は若い頃から膨大な時間を楽器の練習に使います。どうして?うまくなるため。それは、そうでしょう。人並みすぐれた演奏を人は聴きたいと思い、演奏家は、自分がようやく手に入れた他人に真似のできない演奏を聴かせたいと思うのは自然です。誰も好きこのんでへたくそな演奏をお金を払って聴こうとはしないし、人が、何かを真剣に求めて切磋琢磨することが悪いはずはない。

その「あたりまえ」にひそむ罠はないでしょうか?即興演奏はそういうことも問題提起しているようです。演奏家が陥る罠、それは、ともかく良い演奏をしようとすることかもしれません。他のジャンルと一緒に演奏する時それは顕著に表れてきます。

演奏として「うまく」ても、コラボレーションとしては「うまく」ないことが多いことに気がつかない、何のために、そこにいるのか?そのことを忘れてしまうのです。ある時・ある場所での「良い・うまい」演奏は、それ以外の時・場所では通用しないことを忘れてしまうのです。

長年培ってきた技術に対しては愛着もあるし、自分の存在証明のようにも思ってしまうのも分かります。

「優れた」技術には人を驚かせる力もあるでしょう、人を「発見」に導く力もあるでしょう。しかし、そこに慣れすぎてしまうとその「優れた」技術に頼ってしまう危険があるのはないでしょうか。それは奢ったものになっていないか?手垢のついてしまっていないか?本質と離れたものになっていないか?という疑問が出てきます。

一音聴けば誰の演奏かわかる、というのがジャズやクラシックでの美徳でした。それは少なくとも「自己表現」としては成功していますよね。自分の音を求める、自分の表現を求める、そこに耽溺できるほどの天才達がいろいろな伝説を作っていきました。そして若死にしてしまった人が多かったのではないかと思われます。

一方、自分しか出せない音、それをお金に換えて生きていくことがプロという言い方に間違いはないでしょう。美術界では早くからプリミティブなもの、さらにはレディメードが価値を認められ、「匿名」に対する考え方が話題になってきました。音楽に置き換えるなら、プリミティブな民族音楽、レディメードは環境音楽に相当するのでしょう。そして今はポップと商業の波が大きく覆っています。

沢井一恵さんに「箏」の1番良い音は何?と尋ねたとき、「柱(駒)も立てずに、野外に立てかけて置いたとき、風が吹いて鳴る音に優るものはない」と間髪を入れず、答えてくれました。海童道の法竹も「風」になることが目的のようです。

「駱駝の涙」というモンゴルの映画がありました。難産だったために子育てをしない母駱駝に馬頭琴を聴かせると、母は涙を流し、子育てに復帰するというドキュメント映画です。馬頭琴奏者が到着するとまず,楽器に紐をつけて母駱駝のこぶに掛ける、その時に風が吹き「ほわっー」という音が聞こえます。それはまるで母駱駝の身体を調律しているようでしたし、この行程・儀式は、無くてはならないものなのでしょう。

工夫を凝らした音も良いけれど、人知を排した音に対して深く感応するものが記憶にあるのではないか?そんな問いが出てきてしまいます。そこでは、手垢のついた技巧はじゃまです。現代美術のジャン・デュビュッフェは、即興演奏の録音も残しています。彼がこだわって研究・収集をしていたのがエイブル・アートでした。そして美術作品を創るときは素材に人一倍こだわった作家でした(特に若いとき)。人知を排することの難しさという次の課題と取り組んだのでしょう。

私がこの10年ほど試みているのは、楽器を横に置いて弾く方法や、小林裕児作の舟にガット弦を1本張ってそれを弾くという方法です。おそらく誰でもできる演奏方法。何度試みても発見に満ちています。気をつけるのはその方法にあまり「うまく」ならないことです。うまくなっていくと、楽器を習熟していく過程と同じことを繰り返してしまうのではないか、思うからです。(楽器無しで何かをやる、と言うところにまでは至っていません。)

その方法で音を出すと、確かに、技巧を凝らして、懸命に弾いた音に優るとも劣らない音が出ることがあり、それに反応した聴衆・共演者からは普通とは違う次元の感想を聞くことができます。

即興演奏という現場に似合ったことなのかもしれません。

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